2019.1月号

平 潤さん
AJSA公認プロスケートボーダー/佐賀県ローラースポーツ連盟 会長/日本ローラースポーツ連盟 評議員


 

リーバイスCMに起用されたカリスマ的プロスケートボーダー。

とってもオシャレでトレンディ―な感じの平さんは、佐賀生まれ佐賀育ち。現在44歳。知る人ぞ知る、日本のスケートボード界のカリスマ的存在の凄い人だ。

佐賀は「Xスポーツ」と言われる分野においては、残念ながら大変遅れていると言わざるを得ない。その環境は30年前からほとんど変わっていない。しかし、世界はXスポーツにおける各種目が市民権を得て、ついにはオリンピック競技として採用されるまでにもなり大きな盛り上がりを博している。ジャンルによっては、日本人がメダル候補として挙げられる競技も出てきているほど国内でもとても注目されている。そんな状況の中、平さんはおよそ20年以上も前にスケートボードの選手として活躍し、プロとなり、大変人気を集めてきた。さらに、佐賀におけるXスポーツへの理解を深めようと、これまで15年以上行政などに訴え、働きかけてきた活動経歴を持つ。今回は、そんな平さんのこれまでの人生から学ばせていただくことにする。

東京での活動

今からおよそ約20年ほど前。ストリートスポーツやファッションは、東京じゃないとなかなか仕事にならなかったという。新しいジャンルのオシャレさ・カッコよさから、テレビや雑誌で特集が組まれ、日本中のキッズたちが興味を持って見ていた。その全盛期に平さんは、特に中高生・大学生たちの憧れの存在として、テレビや雑誌に出演したりと、とても忙しい日々を送っていた。


イメージキャラクターとして起用されたリーバイスの誌面CM。アジア・オセアニア圏における各ジャンルの広告物に出演していた。

日本タイトル2位の座に輝いた頃から、ストリートスポーツのトレンドリーダーとして芸能活動も始めた。

また、広告代理店などからのオファーによりストリートスポーツのイベントプロデュースも手掛けるようになり多忙を極める日々が続いた。

芸能界・スポーツ界での人脈は深まり各方面に平さんの名が響き渡って行った。そんな中ある時、佐賀市のイベントに出演を頼まれた。その時、「生まれ故郷である佐賀を何とかしないとな」と感じたのがきっかけで拠点を佐賀に作ることを決めた。今では佐賀の拠点となるお店を開いて15年になった。
 

スケボーのきっかけ


ビーバップが映画館で上映されていた。スポーツやるか暴走族になるかみたいな時代。平さんが中学生の頃、巷の少年たちの間ではローラースケート派とスケートボード派に分かれるくらいローラースポーツは盛り上がっていた。特に、部活に行かない連中の中でストリートスポーツは大流行。

平さんも中学2年の頃その魅力にハマった。佐賀で唯一、県庁前にあったスケボーショップに良く通い、そこでいろんな人と出会った。そのお店で読んだ「サーフィンライフ」というサーフ月刊誌に、「日本初! 高校生のプロサーファーが誕生した」という4ページの特集記事を目にした。そこで初めてサーフィンに興味を持ち、お店に来るOBの人に海へ連れて行ってもらった。冬の寒い時期にがばがばのウエットスーツを着て、震えながらサーフィンをやっていたそうだ。これが後に、平さんの人生に大きく影響する経験となっていくのだった。

スケボーもサーフィンもできる千葉の高校へ進学

「ファイン」とは、平さんが学生の時に流行したのロコ系ファッション雑誌のこと。それは、ストリートファッションとクラブミュージック、スケボーとサーフィンやスノボーの話題が満載の総合ストリート雑誌だった。ある日、ふと読んだこの雑誌に、高校のサーフィン部とサーフィンの大会を特集したページがあって、この大会が開催されている場所は、実はその高校と同じ場所だということに気付いてしまった。ということは、この高校に通えばスケボーもサーフィンも両方、出来るんじゃない!? と、房総半島にあるこの千葉の高校へ進学した。「中高の進路で人生って決まるっていうけど、スケートにハマりすぎて周りが見えなかった。当時は、日本全国で見てもスケートができる場所が少ない状況。ましてや佐賀なんて全くなかった。でも、ちょっと外に目を向ければ、こんなにも環境が整った場所があるんだな。」という軽いカルチャーショックを受けた。


 

でも、没頭するがままに打ち込めるならここに行きたいし、行くしかないな、と若い平さんは即座に行動したのだ。そうして進学した学校の目の前は絶好のサーフポイント。朝は海でサーフィン、夕方はスケボーという生活。そんな有意義な高校3年間を過ごした平さんだった。

プロスケートボーダーとしての活動

高校の部活でサーフィンやスケボーをやっていた人でも例外なくショップに所属しており、平さんももちろんそうだった。ただ、上手くなりたくてスケボーをやりたいだけで、初めはプロになりたいとは思ってなかったという。しかし、1年生の終わりにあった大会に、ショップの店長が勝手に平さんをエントリーしていた。これが、平さんの選手としてのデビュー戦だ。最下位になりたくない一心で一生懸命練習して出場した。結果はそこそこだったそうだ。すると、次の試合もそのまた次の試合も無理やり出場させられることが続いていった。


そんなある日の試合では、天候が悪く、開催できるかどうかのコンディションに見舞われ、関東からの出場選手が減った。プロ5人・アマチュア8人、合わせて15人しか参加しないプロアマ混合の大会になった。やはり平さんは「最下位になりたくない!」その思いだけで死に物狂いでがんばったら、今までやったことのないトリック・技が全て決まった! アマチュアの中では、なんと1位だった。このことがきっかけで「俺はやればできるんじゃないか!」と、1日5~6時間、真剣に練習する日々が始まったそうだ。
そして迎えた3年目の関東大会では予選1位通過。ショップの店長から「優勝したらスポンサーになってやるよ。」と言われたが結果は2位。でもその勢いのまま、その年から全日本のアマチュア選手権に出るようになった。そして、その翌年。ついには全日本スケートボードコンテストで優勝を果たした。ここまで来るのは、決して楽な道のりではなかった。練習中に、着地などに失敗して腕が反対に向いたり、頭を強打して半分記憶喪失になりかけたりと、大きなケガを何度も経験してきたそうだ。そうして全国ツアーにも参戦した平さんは、日本ランキング2位にまで上り詰め、いよいよプロデビューと言う運びになった。

さて、当時の平さんたちを見てスケボーを始めた若者たちが多かったそうだ。と言うのも、平さんが掲載された雑誌は、当時、なんと30万部以上売れていたのだ。スケボーに憧れを持つ学生さんたちを中心に、そのファッション性やカッコ良さなどが多くの世代に影響を与えていたのだ。これまでの人生を振り返るともっと頑張っとけばよかったな、まだ出来たんじゃないか? と、少し寂しそうな表情を見せた平さんだった。

そんなある日の試合では、天候が悪く、開催できるかどうかのコンディションに見舞われ、関東からの出場選手が減った。プロ5人・アマチュア8人、合わせて15人しか参加しないプロアマ混合の大会になった。やはり平さんは「最下位になりたくない!」その思いだけで死に物狂いでがんばったら、今までやったことのないトリック・技が全て決まった! アマチュアの中では、なんと1位だった。このことがきっかけで「俺はやればできるんじゃないか!」と、1日5~6時間、真剣に練習する日々が始まったそうだ。

さて、プロで活動すると様々な出演料などが直接個人の収入となる。平さんががプロになった当時、スケートボーダーとしてしっかりと稼げていた人は80人中3人程度のとても厳しい世界だったそうだ。しかし、見た目もイケメンでオシャレな平さん。高校卒業後、東京に移り住むと雑誌の仕事がどんどん増えていった。ストリートブームに乗っかった雑誌も次々に出版されたからだ。またそのうち、有名なスニーカーブランドや大手広告代理店からイベントプロデュースの依頼を受けるようになったり、人気タレントと一緒にテレビ番組などに出演するようにもなった。20代半ばから後半はプロモーション・プロデュース業が増えていった平さん。だんだん選手としてではなく、デモンストレーションや審査員などの立場での仕事が多くなった。そんな中で、「1人でも多くの人にスケボー競技の良さを知ってもらいたい」という気持ちが強くなってきて、積極的にスクールなどを行うようにもなっていった。ちなみにこの頃、スケートボーダーとしてのランキングはそんなに上位ではなかったのに各方面から得る収入は、ランキング1・2位の人の収入を合わせた額よりもはるかに上回っていたという。平さんは「まさに、自分らの時代になったと思った。」と回想した。

佐賀県は47都道府県でXスポーツの環境が最下位

およそ35歳の時に佐賀に拠点を移した平さんだが、今でも東京と佐賀を行ったり来たりの忙しい毎日を送っている。そんな中で時間の隙間を見つけては、佐賀でのXスポーツの普及活動にいそしんでいる。しかし、なかなか自治体の協力を得られず苦戦中だという。やはり財源と場所の問題が大きな壁となっているのだが、それよりももっと複雑なのはその必要性やスポーツとしての楽しさを理解してくれる自治体の協力体制が得られないことだそうだ。しかし、2020東京オリンピックでXスポーツは正式種目として競技が行われることになっているし、その競技人口も徐々に増えつつある。そんな中で、佐賀では子供たちがスケボーを楽しむための整備された場所、とりわけ公園などが皆無と言える。

そんな中、平さんにとって朗報が飛び込んできた! 2019年3月、佐賀県立博物館前広場で「Xスポーツフェス」が開催されることとなったのだ。オリンピック競技となっているストリートスポーツ、スケボー・BMX・3on3・ボルダリングと言った競技を、佐賀県の若者たちが生で見るチャンスがやってきたのだ。若者に、佐賀県での奮起を呼び掛ける山口県知事に対し、平さんは大きな期待の気持ちを寄せている。

佐賀県は47都道府県でXスポーツの実施環境が最下位ということだ。唐津と伊万里・武雄にはスケボー専用の広場がやっとできたそうだ。でも、大会用のセクション(造形物)は予算の都合上、設置されていないという残念な事実。とはいえ、このような広場が設けられただけでも大きな進歩と言えよう。スポーツという概念から言えば、サッカーや野球と同じだと平さんはいう。一番必要なのは滑る場所ができること、つまり、環境が整う事。安全に教えてもらえると分かれば、親御さんも子供を連れて来てくれるだろうと考えている。そして、その場所自体が人々の賑わう交流の場になり、2次・3次産業が産まれ、良い関係が広がっていくこと、それを作ることが平さんの目標でもあるそうだ。

スケーターとしての最終章を飾る為に


「若い時、佐賀を離れて関東でいろんなことを学ばせてもらった。佐賀に帰ってきて現状が変わらない悔しさを味わった。」と語る平さん。 確かに、世界にはスケートをやっている多くのキッズたちがいるわけで、日本もようやくそのレベルに追い付いてきた感じもする。だからこそ日本人が、東京2020でメダルを取れる可能性にたくさんの人たちが期待を寄せている今日だ。

そんな情勢の中で、平さんは「自分があと何年滑れるか分からないけど、滑れる間はこのスポーツの素晴らしさをアピールしながら普及活動をがんばりたいね。」と爽やかな笑顔。だが現在、佐賀出身佐賀在住のプロスケーターは平さんだけ。「自分が辞めたらこういう役目の人がいない。」というのも1つの悩みとなっている。また、「やる場所がないから競技人口が増えない。」という状態もまた悩みのタネ。だから、楽しくスケボーなどができる場所の設置活動もがんばってるのだそうだ。未来のオリンピック選手が佐賀から生れてほしいと願う平さんの、スケーターとしての最終章を飾る活動の大きな目標は、ストリートスポーツの実施環境が47位の佐賀が1位を目指すことにあるということを高らかに宣言してくれた。是非ともがんばって、その目標を実現させてほしいと心から願ってやまない! 未来のゴールドメダリストを輩出するために、がんばって! 平さん!


KENTO編集長の所感


平さんの存在を今の中学生、高校生、大学生に知って欲しいと思った。夢がない。やりたいことがない。と言って、人生に面白みを感じていない子供達が多いと聞く。ただ平さんを見てたら、夢うんぬんの前に、目の前の好きなことにどっぷりと、とことんやり通した結果、夢が広がった人なのだと思う。もちろんこういう成功した人は一握りではないかという大人達の意見はよく聞く。でも人生一度きり。自分の人生だから、とことん好きなことに打ち込んでいいと思う。その結果、道は切り開いていけると思う。私自身も平さんの話を聞いて、心動かされた。自分に偽りなく、目の前のことに打ち込んでいきたいと思う。ありがとうございました。