≪第10話≫ 夫婦で二人三脚・奇想天外PR大作戦!その②
戦後、日本人の着るものが洋服に変わりました
鹿島はいまでも博多から特急で1時間の小さな町です。その鹿島でも戦争が終わると、みなさん一斉に、着物から洋服に着るものが変わりました。ただ、いまのようにレディメイド(既製服)の洋服が出回るようになるのはまだ少し先のことです。最初はお仕立て、オーダーメイドですね。
お客様からお仕立ての注文を取るといっても、戦後はものが不足していた時代です。洋服を作るための新品の生地なんて夢のまた夢で、洋服を作るための型紙やスタイルブックも手に入らない。私が主人とモード洋品店を開店したのは、そういう時期に当たっていました。
生地がないのにどうしたかと言いますと、古い着物を洋服に仕立て直して、着ていたんです。いまでいう、着物リメイクや着物リフォームですね。とくに戦後は、男性のはかまはほとんど着る機会がなくなりましたので、「これを洋服に作り変えてほしい」と男性用のはかまをお持ちになるお客様が多くいらっしゃいました。私もはかまをだいぶ女性用ズボンに作り直した記憶がございますよ。
夫から湧き出すアイディアを形に
私が婦人服のお仕立てと紳士用小物の販売を担当し、主人は福岡や大阪に品物を買い付けにいくほか、お店の経営に関わることをしていました。主人は軍隊式ですので、「おい、道子っ、何をしているっ!」と私は叱られ通しでしたが、主人の発想にはどこか奇想天外なところがありました。そして、次から次にいろんなアイディアを思いついては、片っ端から実行に移すんです。
主人の〝奇想天外〟が発揮されたのが、もっぱらお店の宣伝でした……季節ごとの売り出しセール、新商品大量入荷市や、処分市――これはいまのクリアランスセールですね。お店としてはその時々、宣伝をして、沢山のお客さまにお越しいただくのが大事な仕事になります。
いまから60年前の昭和30年代の半ば(1960年)ごろ、モードの自動車に山のように風船をつけて、宣伝カーに早変わりさせたことがありました。鹿島の山のほう、海のほう、町のすみずみまで風船付きの車をくまなく走らせて、セールや新商品をお知らせして回ったんです。みなさん、お家の前まで、洋品店のそんな派手な車がいきなり来たら、いまでもびっくりなさるでしょうねえ。
巨大なネクタイがお店の前に出現!
主人はうちのお店にお客様の注意をひきつけるため、あれこれPRの知恵をひねりました。美術が好きだった主人は、学生の頃は東京藝術大学に行きたかったらしいんです。絵を描くのが得意でしたので、宣伝用の資材や絵も自分で作ったり描いたりしました。
あるときは、巨大なネクタイを木で作って、斜めの縞模様にペンキを塗って、レジメンタルのタイに仕上げました。それを棹につけて、お店の前に高々と掲げましたね。
お店を始めた昭和20年代から30年代にかけて、ネクタイがよく出ました。会社でお取引先へのご進物に使うギフト用に沢山買って頂きましたし、男の方たちも自分でお店に来られて、好みのネクタイを買い求められたものです。
昔の男の人は、外出時は背広にネクタイ、帽子をかぶる、という決まったスタイルがありましたから、モード洋品店にとってネクタイは大事な主力商品の一つでした。
それでネクタイの大売り出しのとき、主人は「鹿島駅で降りる人や町のどこからでもネクタイの看板が見えるようにしたい」と申しまして、張り切って、木製の大ネクタイを作ったんですね(笑)。
2019年はモード70周年記念ということで、折々、記念の催しを企画しました。孫の賢人が、「お客様にモード70年の歩みを見て頂くために、ビデオを作る」といって、ビデオに使うための写真選びで昔のアルバムを見ていましたが、この巨大ネクタイの写真を見たときは、「これなにーっ? おじいちゃんは鹿島でこんなことしてたと〜?」と驚いていました。
「お客様の度肝を抜くような宣伝がしたい」と……
大きな薬玉(くすだま)は売り出しや処分市のとき、何度も作りましたし、七夕セールでは、それに合わせて星形の薬玉を作りました。アイディアを思いついて号令をかけるのは主人で、それを作るのはたいがい私です。
おかげさまで、鹿島市新天町の3坪の店舗から始まったモード洋品店は、やがて17坪に拡張しました。それに続いて、道をへだてて、「洋裁手芸材料店モードNO2」ができ、同じ鹿島市内の東町に毛糸専門店モードNO3と、店舗も増えていきました。3つのお店を毎日切り盛りしていると、宣伝用の資材を制作するのは夜中になります。
どういうわけか主人は大きなものが好きで、「見る人の度肝(どぎも)を抜くような、大きなものを作る」ということが多かったですね。それで作るのにも手間や時間が相当かかりました(笑)。