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MICHIKO’S BLOG

2020年3月30日

≪第15話≫ 私と洋裁――芸は身をたすく・その③
モードが3店舗に増えた頃


一生懸命、働いているうちに、3坪でスタートしたモード洋品店を17坪に拡張しました。新しい店舗にはショウウィンドウもついていました。でも、これが小さいものですから、私が中に入って、商品を入れ替えたり、ディスプレイしていると、すぐ頭が天井についてしまうんです(笑)。

17坪に拡張したモード洋品店のショーウィンドウで作業中。
新しい物好きの夫・四郎がカメラを手に入れて撮影したものと思われる。

昭和30年代に入ると、既製服が出回り始めました。注文して作るのではなくていまと同じ、すでに出来上がった形で売られている洋服ですね。お店のショウウィンドウには、そのときどきに応じて、流行のブラウスやスカートを並べました。モードの続きにある私の実家「清川」で夜、会社の宴会が入っているときは、ディスプレイの中身を婦人服から、ネクタイやシャツ、紳士物の靴下にぱっと取り換えて、お客様の目を引くよう努めました。
あらためて写真を見返すと、狭いところにあれこれ並べ過ぎですねえ(笑)。紳士用ネクタイは洋服に比べて、材料にする布も小さくてすみますし、需要が多かったのか、戦後の早い時期から問屋さんが扱っていました。

店舗以外でも、清川の大広間などを使って、お客様にゆっくり商品を見て頂く特別セールを行っていた。

問屋さんが黒い大きなトランクを提げて、うちの店にも来られていました。トランクの中いっぱいに入っているネクタイから選んで、その場で買い取るほか、博多の旅館やホテルを会場にして行われる見本市に足を運んで、欲しいネクタイを買い付けたりしました。福岡の見本市には、モードのような小売業者が九州各地から結構な数、集まってきていましたので、そういう場所は賑(にぎ)わっていました。

洋裁や編み物が人気の時代に


「謹 賀 新 年
平素は格別の御愛顧を賜り厚く御礼申し上げます
御蔭をもちまして弊店モードも日々好調を加え発展的営業を致し
居ります事は偏へ(ひとえ)に御得意様各位の不変の御引立の賜(たまもの)と深謝致しております
開店以来「奉仕に明け奉仕に暮れる」をモットーとして努力致してまいりましたが今後共倍旧(ばいきゅう)の御引立・御指導の程を伏して御願い申し上げます
昭和三十二年元旦
佐賀県鹿島市         
東 島 四 郎        
店員一同       
有名洋品店 モード      
(鹿島市西牟田)       
洋裁手芸材料店NO2モード  
(鹿島市新町)        
毛糸専門店 NO3モード   
(鹿島市駅通り)       
電話番号〇〇〇・〇〇・〇〇〇」

これは、昭和32(1957)年にお出しした年賀状の文面です。昭和24年1月に3坪の店を開店してから、丸7年が経った頃ですが、おかげさまでNO2、NO3が加わって、店舗が3つに増えております。住所の地名は違いますが、最初の店のNO1とNO2は通りを隔ててお向かいにありました。

モード本店と手芸用品専門店のモードNO2。
毛糸専門店NO3では、店頭で編み機の実演を。

洋裁は戦後、女の人たちに人気の技術になりました。その頃は、職業婦人と呼んでおりましたが、働く女性たちが増え、「手に職を持つなら、洋裁がいい」と洋裁学校が全国に沢山作られました。職業にするほか、洋裁の技術を身に着けていれば、家庭に入っても、家族の着るものを作ったり、縫ったりするのに都合がいいと、洋裁は花嫁修業の一環としても注目されたんです。
当時は主婦が家族の着るものも手作りしていることが多かったので、モードNO2が洋裁手芸材料店、モードNO3が毛糸専門店なのも、こうした時代背景によるものです。鹿島実業高等学校にも家庭科(のちに家政科)が新たに創設され、生徒さんたちが実習の材料や道具を買いにみえました。始業前に立ち寄られますので、朝8時ぐらいには店を開けておりました。

ある日の大失敗!


NO3が毛糸専門店なのは、洋裁と並んで編み物も人気が出ていたのと、当時は赤ちゃんが生まれる方に、お祝いとして、毛糸を詰め合わせて贈答品にしていました。これは毛糸をもらったお母さんになる方が、赤ちゃん用ケープなどを編むことを前提にしたプレゼントです。既製品をプレゼントする近頃とはちょっとお祝いの品も違いますね。NO3では毛糸の販売のほか、婦人服のオーダーも受け付けていました。
3坪の店舗のときは、私ひとりで承っていた婦人服のお仕立ても、注文が増えるにしたがい、縫い子さんを雇えるようになってきました。洋裁学校を卒業した若い未婚の女性たちが4、5人、清川の一室を専用の仕事部屋にして、働いてもらっていました。この部屋は「7号」と呼んでおりました。

お店の寝具売り場にて。

店舗が増えるにつれて、だんだんと私の仕事は、お仕立ての仕事より3つの店舗を切り盛りすることへと変わってまいりました。主人はお客様をお待たせするのが何より嫌いで、そういうことがちょっとでもあるとものすごく叱ります。
あるとき、NO1にいると、向かいのNO2でお客様がお待ちになっているのに気が付きました。「あら、いけない」と思って、NO2に向かって通りを渡ろうと足を踏み出したとたん、バーンと店のガラスに顔をいやというほど打ち付けました。とても慌てていたので、ガラス戸が閉まっているかどうかも確認しないうちに、走り出そうとしちゃったんです(笑)。
「ガラスが割れなくて本当に良かった」というほど勢いよく、ぶつけたものですから、あとから顔が痛くて痛くて、当たったのは鼻でしたけれど。鼻に赤チンキをつけて、マスクをして隠しましたが、あれは恥ずかしかったですねえ。
いまでも娘の麻貴が、「お母さん、あの頃あんまり忙し過ぎて、NO2に急いで行こうとして、顔をガラスに思い切りぶつけたことあったよね?」とこのときのことを思い出して言うんです。私は気まりが悪いので、「うーん……なんでだったかねえ……ふーん」ととぼけたふりで受け答えしております(笑)。   

インタビュー・文 樋渡優子
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