≪第3話≫結婚、そして大連へ。(前編)
主人、東島四郎は私の遠縁にあたる人で、白石(しろいし)という鹿島から車で20分ほどの町の出身でした。戦時中は、主人の両親が中国大陸の大連(だいれん)で鉄工所をしていた関係で、大連一中を卒業しています(注:戦前の中学校は、戦後の高等学校にあたる。大連一中は1918年に中国大陸の関東州に設立され、黒澤映画で世界的に有名な俳優の三船敏郎さんや、映画「寅さん」シリーズの山田洋次監督もこの学校の出身)。
旧制中学の頃の主人は一時期、鹿島市の私の実家、料亭「清川」の近所で「香月パン」というパン屋さんをしていたおばさんの家から、旧制鹿島中学校(いまの鹿島高等学校)に通っていました。このおばさんがのちに、うちの両親に「道子さんを四郎と結婚させたらどうだろうか」と勧めたようです。昔はそういうふうに、結婚や就職のときに、親類や知り合いの世話を熱心に焼くおばさんたちが、あちこちにいたものでした(笑)。
慰問袋がつなぐ縁
主人は私より4つ、歳上でした。親類といっても、縁談が持ち上がるまではちゃんと会ったことはなく……もし、会っていたとしても、親戚の大きな集まりなどで、記憶に残らない程度でした。そもそも、結婚するきっかけになったのは、戦争中の「慰問袋(いもんぶくろ)」です。
慰問袋といっても、いまの若い方はおわかりにならないかもしれませんねえ……戦時中は、戦地に行っている兵隊さんの親類や知り合いが、着るものや食料品を専用の袋に入れて戦地に送ったんです。
この袋のことを、「慰問袋」と呼んでいました。主人と私とは親戚筋にあたりますので、私も衣類を縫ったりして慰問袋を送っていたんです。それで、香月パンのおばさんが、「2人を結婚させたらどうだろうか」と話を持ちかけたというわけです。
3人姉妹の真ん中
私は4人きょうだいです。上から3人姉妹で、私は真ん中。姉の幸代(さちよ)と妹の勝代(かつよ)とは2歳ずつ離れています。一番下が弟で、私とちょうど一回り、12歳歳の離れた平一郎。すでに3人とも亡くなりまして、淋しいですね。
1939(昭和14)年のお正月。左から妹の勝代、数えの15歳姉・幸代19歳、道子17歳。平一郎5歳。
娘の結婚、に関して、両親はとても悲しい目に遭(あ)っていました。姉の幸代が嫁いだのち、22歳の若さで世を去っていたのです。姉は本当にきれいでねえ、何でもできる人でした。姿かたちもよく、歌も踊り(日本舞踊)もとっても上手で、「東京で本格的に修業するつもりはないか」とお話がくるほどでした。とくに声がよかったので、催し物があると、なにかと皆さんの前で歌を披露しておりました。ついたあだ名は「鹿島の天津乙女(あまつおとめ)」です――天津乙女さんというのは、当時の宝塚少女歌劇団のトップスターの名前です。
「清川の娘は、幸代ひとりがおったら、他はもういらんぐらいだなあ」とお客様にも言われていました。妹の勝代はテニスの名手で、全国優勝をいたしました。テニスの話はまたあとで出てくると思います。私はすぐれた姉と、スポーツが得意で活発な妹に挟まれて、どちらかというと影は薄かったんです(笑)。子どもの頃は体も弱かったので、きょうだいの中で私が一番長く生きるとは、思いもしませんでした。
両親にとっては自慢の娘、私たちに妹にとっては頼りになる存在の姉・幸代は、鹿島高等女学校を卒業後、結婚して、満州に渡りました。満州の中でも北満(ほくまん)と呼ばれていた奥地のほうへ、長い時間、汽車で揺られて行きました。鹿島は気候の温かい九州にあります。九州に比べると、満州はただでさえ、気候が冷たいところですが、一番寒い時期に行ったもので姉は風邪を引いて、それをこじらせて、病気になってしまいました。
「ここにいては治らないから」と治療のために鹿島に戻ってきました。実家の清川でしばらく養生していましたが、結局、亡くなりました。私がはたちになった年でした。