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MICHIKO’S BLOG

2020年3月1日

≪第12話≫ 夫婦で二人三脚・奇想天外PR大作戦!その④
アドバルーンはどこに?


前回は、夫の作った元祖ゆるキャラ〝ミス鹿島〟の話をいたしましたが、そういう失敗はいくらもしています。あるときは、自家製のアドバルーンも作りました。お店の宣伝用です。大きな布を縫い合わせて……色は赤と白だったと思います。布はお店で売っているものを使いましたが、洋服用の反物(たんもの)ですから、幅が足りません。私たち家族4人が暮らす実家の料亭「清川(きよかわ)」の結婚式などに使う百畳敷きの大広間に布を広げて、夜中、夫婦でせっせと布を繋ぎ合わせて、作業して、アドバルーンを作り上げました。 

「電車の窓からよく見ていなさいよ」と……


お店が終わって、帰るのはたいてい午後8時ぐらい。子供たちに食事をさせて、寝かしつけて、それから主人とお店のことを話したり、注意を受けたり、あれこれしていると、宣伝用の資材を作るのは夜半過ぎになります。

楽しい家族写真。昭和30(1955)年ごろ。

出来上がったアドバルーンをあげる日は、ちょうど私が博多に仕入れに行く日でした。朝、出がけに、主人が「帰りは、電車から窓の外をよく見ていなさいよ。白石のあたりからは、アドバルーンがあがっているのが見えると思うから」と言うんです。白石は鹿島から車で20分ほどの距離にある町で、主人の生まれ育った場所でもありました。
用事を終えて、博多から帰りの汽車に乗り込んで、やっぱり私も楽しみだったんでしょうねえ。佐賀を過ぎたあたりから、「どのあたりから見えるかなあ」と気を付けて、窓の外を眺めていました。白石を過ぎましたが、何も見えないので、「どこだろう」と首を伸ばして、空に赤と白の模様を探しましたが、いくら目を凝(こ)らしても、アドバルーンは見えません。鹿島に近づいても見えずで、そのまま店に帰りましたが、どういうわけか、うまく上がらなかったようなんですよ(笑)。
主人はアドバルーンに入れる液体窒素のボンベまで取り寄せていましたが、それがぐあいが悪かったのか……なかに入れるものがよくないなら、取り替えれば、上がってもよさそうなものです。ミス鹿島のときと同じで、大変な思いをして縫い上げた巨大アドバルーンも、その後、どうしたのか思い出せません。ミス鹿島人形もどこに行ったのか、主人の奇想天外はなんと申しましょうか、こんなふうに中途半端で終わることが結構ありました(笑)。

自動田植え機の発明に挑戦!


主人の奇想天外は、お店の宣伝にとどまらず、とうとう「自動田植え機」を自分で作るところまで行きました。一時期、本気で新しい田植え機を作ることに熱中していました。これには私は関わらず、お知り合いの方と2人で、田植え機の研究に取り組んでいました。この自動田植え機の写真が残っています。
田植え機の先端の部分には、細長い木片をキャタピラーのようにつなげた丸い装置が取り付けてあります。後ろから、機械を押しながら進むと、この丸い装置がくるっと苗をすくって、田んぼに植え付ける。

四郎が考案・自作した自動田植え機。
木製ながら、仕組みはのちの電動田植え機とほぼ同じ。

少し進むと、またくるっとキャタピラーが回って、苗を植えるという仕組みです。あらためて写真を見ますと、部品は木製ながら、いまの電動田植え機と同じ仕組みで外見もほぼ同じです。ただ、試作するところまでは行きましたが、その先はやめてしまいました。主人は「面白い」と思ったらすぐ飛びつくんですが、飽きっぽいところがありましたね。
 
そのほか、主人がしいたけ栽培をしていた時期もありました。菌を木に植え付けておいて、しいたけが出てくるのを待つというものです。戦友の方と2人で、「塩田(しおた)の八天(はってん)神社の広い敷地の一角に、薄暗い場所があるから、しいたけ栽培に適している」と塩田町に通って一時期、熱中していました。これもそんなに長くは続きませんでしたけれど、いま思えば、そのとき、そのとき、一生懸命に主人は目の前のことに取り組んでいたと思います。

私たちの商売が人のためになるように


道子と娘の麻貴。お母さんの作ったコートを着て。

お店でもお客様をお待たせするのが一番嫌いで、そういうことがあるとすごく怒りました。お客様第一主義でした。自動田植え機を作ろうと決心したのも、佐賀は米どころで有名な土地ですが、「お米づくりは農家の人たちがものすごく骨が折れる。だから、なんとかして農家の人たちの作業が楽になるようにしたい」と申しておりました。
最後までやり遂げられないところがたまにキズですけれども、「自分たちの商売が人のためになるようでありたい」という気持ちを主人はずっと持っておりました。それがモードのお店の仕事であれ、それ以外の自動田植え機やしいたけ栽培であれ……。
そのたびに主人の奇想天外に付き合わされる私は、本当に大変でしたよ(笑)。主人はこの後、昭和39(1964)年、東京オリンピック開会式の10月10日に佐賀市で「金ちゃんうどん」というお店を始めます。お店の中にはカラーテレビを設置して……でも、その話はもう少し先になります。
 
モードグループの70年間は、婦人用品だけを扱ってきたのではないんですね。私はもともと洋服が好きでしたから、鹿島の人に「いろんな洋服を見てもらいたいな」という希望を持っていました。と同時に、生活をしていくために、お店を続けていくためにその時々、手当たり次第にいろんなことを試してみて、ここまで来たんですね。失敗も沢山しましたけれど。
振り返ると「よくいろんなことをしてきたなあ」と思います。モード、という主人が付けた名前も70年変わらないように、お客様のためにと願い、新しいことに積極的に取り組む気持ちは、ずっと変わってほしくないなと思います。

インタビュー・文 樋渡優子
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