≪第9話≫ 夫婦で二人三脚
奇想天外PR大作戦!その①
健啖家(けんたんか)というほどではないですが、ご飯は毎食、美味しくいただきます。孫の賢人の家族と外で焼肉を食べたり、初めて食べる外国のお料理も抵抗(ていこう)なく頂きますので、「なんでも食べるねえ」と感心されますが、ここ数年、食べ物の好みが変わってきました。
私は97歳ですから、こう申し上げると、「脂(あぶら)っこいものを避けるようになったのだろう」と想像される方が多いと思います。確かに年をとると、食べ物の好みが昔ながらの和食や、あっさりした食べ物に傾くとよく聞きますね。
私の場合は逆で、以前は好きだったお豆腐を食べたくなくなりました。それと卵料理も玉子焼きや茶わん蒸しは、前は大好物だったんですけれどダメになり……これはどうしたことでしょうか。たとえば、冷や奴は気が進まなくても、麻婆豆腐のように味の付いた献立ならいいかというと、それもダメで、お豆腐そのものに箸を付けなくなりました。卵もそうです。好きな料理はといえば、もとから酢の物全般が好きですが、こちらは変わりなく、美味しく食べ続けております。
どの国の料理でも食べられるのは、若いときに外地(大連)で生活したせいかもしれませんね。主人はもっと10代の頃から長い期間、大連などにおりましたから、中国へのなじみ方はより深いものありました。亡くなるまで、好きな料理は中華料理でした。ピータン(皮蛋:あひるの熟成卵)、マントウ(中国風蒸しパン)、餃子……餃子は、主人が小麦粉で皮から自分で作って、具を詰めて、焼いて、家族に食べさせていました。
私の技術を生かして婦人服のお仕立てを始めました
今日は主人の話をいたしましょうか。
昭和24年1月、主人と私は佐賀県鹿島に「モード洋品店」を開店しました。ソックスや下着、ネクタイ、シャツなど紳士用小物の販売のほか、婦人服のお仕立てもしておりましたが、こちらは私が注文をとってお作りもして、と丸々私の担当です。鹿島高等女学校を卒業後、2年ほど博多のおばの家から洋裁学校に通って、デザインや縫製など洋服を作るための技術を習得していました。
父に連れられて、鹿島から博多に学校の下見に行ったのを、いまでも覚えています。街を歩いていたとき、洋裁学校の前を通りかかりました。よさそうな学校だったので、中に入って、説明をお聞きすることに。そこに出て来られた院長先生が、本当に目が覚めるほどおきれいな方だったんです。ハイヒールを履いて、髪も洋風のスタイルでまとめたお洒落の最先端でいらっしゃいました。父もすぐに「ここに決めたらいいじゃないか」と言うので、入学することに決めました(笑)。
昭和14(1939)年、まだ戦争が始まる前のことです。その後、戦争が始まり、私は昭和17年(1942)に主人と結婚して、大連に渡りました。戦局のゆくえが危うくなったので、昭和19(1944)年秋にお姑さんと一緒に鹿島に戻って来て、翌年、長男・秀行が生まれました(1945年4月)。同年8月15日、日本が敗戦という形で戦争が終わりましたが、主人はすぐには帰っては来ず、同じ隊の人たちとシベリアに抑留されたままでした。最初のうちは、シベリアにいることもまったくわからなかったんです。
3年たって、主人が昭和23(1948)年の秋に復員してきまして、まもなく夫婦でモード洋品店を始めたわけですが、婦人服のお仕立ての注文がとれたのは、私に洋裁の心得があったからでした。