≪第2話≫モードグループの始まりはパンツのゴム紐でした。
今年の年明けに佐賀新聞に掲載された記事を見て、東京のラジオ局から取材のお申込みがきました。
「東京のラジオ局の方が、佐賀新聞をどうやってご覧になったのかしら」と思いましたが、いまはインターネットで佐賀新聞の記事がどこにいても読めるそうですね。しかも、番組の特別車がわざわざ鹿島まで来られるというので、驚きました。
収録の日、東京からお車とアナウンサーの女性の方がモードに到着しました。そのときの番組の様子をご紹介しますと…
「HONDA SMILE MISSION(ホンダ スマイル ミッション)女性向け洋品店を70年経営するマダムをリサーチせよ!」
佐賀県南部の鹿島市にある今年創業70年のサロンモード。いまでは県内に18のグループ店をもつこの洋品店を、昭和24年に始めたのは、東島道子さん。なんと96歳にして、いまなお毎日お店に立っていらっしゃいます…。(注:取材時は96歳。)
ルーシーさん「サロンモード到着。東島道子さん、おはようございまぁーす」
私「おはようございます」
ルーシーさん「お孫さんの山口賢人さん、おはようございます」
賢人「おはようございます」
ルーシーさん「お会いできて光栄です」
私「ありがとうございます。あの、私は年をとっているだけでございまして…」(一同笑)
ルーシーさん「今日は銀色のニットに、素敵なストールをかけていらっしゃいますが、お店が昔ながらの素敵なブティックなんですよね。今年70周年! おめでとうございます」
私「ありがとうございます」
ルーシーさん「お店の1階には、カジュアルなものから帽子やシューズ、バッグ。2階に上がると、ドレスやジュエリーのコーナーなどもあって、ここはゆったりとくつろげるスペースになっています」
私:「鹿島は小さな町でございますのでね。一軒ぐらいこういうところがあったほうがいいんじゃないか、と作りましたところ、お友達やお知り合いと遊びにいらっしゃるんですよ。それでなんとか成り立っていっているようなものです」
東京からやってきた番組の特別車とパーソナリティのルーシーさん。
ルーシーさん「名前もそのまま、人が集(つど)うサロンです」
私「サロンモードというのは主人がつけましてね。その当時は『モードってなんやろうか?』と言われました(笑)」
賢人「昔の人は右から左に読んだらしいので、看板を読むとモード、『ドーモはなんば売りよるとね?』と」
ルーシーさん「フフフ。ドーモって挨拶かと、みんな思ったんですかねぇ?」
私「(少し考えてから、ゆっくりとした口調で)いやぁ……ドーモって挨拶じゃあないんですよ」(みな爆笑)
ルーシーさん「冗談を真剣に受けて頂きまして、恐れ入ります」
男性アナの声が入る
男性アナ「手元にレポート写真が届いております。東島道子さん、96歳ということなんですけれど、おしゃれですし、お若い。笑顔も可愛くてねえ。
東島さんは高等女学校を卒業後、 洋裁の技術を身に付けました。戦争が終わって始めたのは3坪の店舗。小物から売り始めて18店を構えるグループ店にしました」
ルーシーさん「なぜ洋服店を?」
私「最初はお仕立てをしていたんですよ。それでは1日に1枚ぐらいしかできない。それで洋品店をして、ここで物を売ろうかというので、初めは小物ですね。隣は料亭で、宴会があるときには小さな店のウィンドウを紳士物に変える…」
ルーシーさん「ほう!」
私「そうやって商売がなんとかできてきました」
私「そう。1センチぐらいの棒状になったの。戦争直後はこれの質が悪いから、燃えないんですよ。『仕事も何も、夜はできないねえ』ということで、自分で作ることに決めて、純綿を使いました。
賢人「古い肌着を利用して作って……」
私「はい、私が作った芯は高かったんです。でも、これはよーく燃えるというので、出るようになりました。それで調子に乗って、もっと作りました(笑)」
ルーシーさん「よいものを作れば売れる、というご経験は、いまにつながっていますか」
私「そうですねえ……」
賢人「それはいまの会社の経営理念に結びついていますね。本当にいいものをお客様に提案していく。そういう考え方は、70年たったいまでも受け継いでいかなければいけないな、と思っております」
ルーシーさん「しっかりしたお孫さんが跡継ぎにいらっしゃいますね!」
私「おかげさまで」
ルーシーさん:「これからもずっとお元気でいてくださいね」
私「ありがとうございます」
ルーシーさん:「継続に尊敬〝モード〟〜!!」
私「ありがとうございました。そんな高く評価されては困ります」
男性アナ「アニバーサリーイヤーの今年は、記念グッズの発売も予定されています。お店に訪れる方は道子さんの元気な姿を見て、テンションをもらうところもあるんでしょうね。毎日お店に立っているというのにも頭が下がります。
若さの秘訣は、96歳の東島道子さんから学ぶと、人とのコミュニケーションなんですね!」
物のない時代に、市場で油と物々交換を
放送を録音したものを聴きましたら、聞こえてくる声が自分の声とぜんぜん違うんですよ。賢人に「みんな、そんなふうに感じるもんだよ」と言われました。あんな話でよろしかったのか、よくわからないんですよ。いつも目の前のことを必死にしているだけなもので。
必死といえば、主人(東島四郎)とモードを始めたときもそうでした。昭和20年8月15日に戦争が終わりましたが、兵隊に行っていた主人はすぐには帰って来なかったんです。シベリアに抑留(よくりゅう)されて、鹿島に帰ってきたのは昭和23年の秋でした。
私の実家の料亭「清川」の8畳間に、私たち夫婦と3歳の長男・秀行が居候(いそうろう)をして、翌年の夏に娘の麻貴(まき)が生まれました。家族4人が生活をしていかなければなりませんので、小物を仕入れて売ることを始めました。
最初の頃、扱っていた品物のなかに、男性用下着のパンツのゴム紐がありました。いまの日本からはとても考えられないと思いますが、パンツに入れるゴムさえ、当時は不足していたんです。
70周年を記念して、今年、賢人が紳士用のオリジナル下着(ZOOit)を企画・販売しております。これは賢人にとって、モードがパンツのゴム紐から始まったというのが意外で、とても興味深かったようで、初心忘れずという気持ちでしょうか、紳士用下着を作りました。婦人用品店として長らく親しまれてきたモードですが、始めに売っていたのは紳士用小物が多かったんです。
品物を買い付けに、主人は福岡や大阪に出掛けていきました。そして、ゴム紐やボタンなど買い付けてきた商品を並べると、端(はじ)から売れていく、そういう時代でした。鹿島駅から汽車に乗り込むとき、主人はお金をしっかり懐(ふところ)に入れて、リュックを背負い、両手に油の入った重いブリキ缶を2つ提げて行きました。油は食用油です。
日本中、物のないときでしたので、市場に行けば、ものが欲しい人たちが詰め掛けています。お金でなくても、油を持って行けば、こちらの欲しいものと物々交換できました。
いまのように宅配便はありませんから、手に入れたものは自分で背負ったり手に持って、帰りの汽車で運びます…そうしながら、一つでも多くの品物を、鹿島に持って来るよう努めました。
最初のヒット商品はランプの灯心
困ったことに、苦労して商品を手に入れてきても、なかには質の良くないものがありました。たとえば、着る物を作ったり、繕(つくろ)うために必要な生活必需品の縫い糸。使っていると、「あら、もう芯が出てきた」と思うような、見かけよりだいぶ長さが少ない、こちらをだますような品物も出回っていました。
また、ラジオでお話ししましたように、ランプの芯にはみんなが苦労しておりました。電気は各家庭まで来ていましたが、しょっちゅう停電するので、日常生活ではランプもまだ使われていました。理科の実験で使うアルコールランプの液の中に、ひもが浸(つ)かっているでしょう? あれがランプの灯心です。既製品は〝スフ(人絹・じんけん)入り〟で、素材が綿100パーセントの純綿ではなかったんですね。
昭和28(1953)年、夏の大売り出し。婦人・子供用の帽子、ブラウス、カッターシャツ、下着類を販売していた。
スフ入りの灯心は最後まで順調には燃え続けてくれず、途中で何度も火が消えてしまいますので、そのたびに暗がりの中でマッチを擦(す)って、火をつけ直さないといけません。これでは夜、部屋で作業していても、煩(わずら)わしくたまりません。あるとき、私たち家族が居候していた実家の父が、
「これは何とかせんといかんやろう。自分で作ってみたらどうか」
と私に勧めました。私は女学校を卒業してから、2年ほど博多の学校で洋裁を習っていました。父にこう言われて、あれこれ考えまして、「やっぱり綿100パーセントがいいだろう」と思いつきました。それで綿の肌着の古くなったのを集めてきて、熱湯できれいに洗い、長さ25センチ、幅1.2センチぐらいの棒状に裁断して、灯心を作りました。
試してみたら、これがうまく行ったんです!(笑)。純綿の灯心は最後まで火が途切れることなく、順調に燃え続けました。さらに、アルコール液に浸したときに、バラバラにほぐれないように、途中3ヶ所に、ミシンで斜めに2、3本、縫い目を入れて、布を補強しました。これにて完成です。
お店のスタッフ、洋裁部のスタッフと佐賀県太良町の名物、竹崎ガニを食べに。いまでいう社員旅行のようなものだが、写真はその道中。中央の黒い日傘が道子。少女は麻貴(昭和32年頃)。
店に並べると、飛ぶように売れました。アイディア商品のはしり、と申しましょうか……古下着を利用した「最後まで火が消えないランプの灯心」はモード洋品店、初のヒット商品になりました。
あの頃は本当に物がありませんでしたから、だれもが手元にあるおのを精一杯工夫して、自分の頭と手を使って作り出すしかなかったんです。生きて行くために、もう手当たり次第、がむしゃらに…という感じでした。
これから順々にお話しして参りますけれど、モードは婦人用品だけでなく、70年間、衣・食・住にわたって、いろんなことをして来ました。何をしていても「お客様のためになることを一心にする」というのが主人の姿勢でした。その心があったので、何とかここまでが続けてこられたかなあ、と思います。