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MICHIKO’S BLOG

2020年1月20日

≪第8話≫ 健康の秘訣③
妹の勝代がテニスで全国優勝


1年、365日、晴れと曇りの日は暗くなって、ボールが見えなくなるまで外のコートで練習。雨の日は屋根つきの雨天体操場で、素振りや前衛へのボール上げなどをする――テニスの部活動が私の女学校時代の大きな割合を占めていました。
昭和14年春、私が鹿島高等女学校を卒業すると、ペアの相手だった白浜蘭子さんは、こんどは妹の勝代とダブルスを組むことになりました。勝代は背丈こそ、そう高くはなかったものの、体つきはがっしりしていて、顔立ちもどことなく西洋人のようだと言われることがありました。

部活動のユニフォーム姿で、ラケットを持つ勝代。胸に学校名をあらわす「鹿島」の文字が見える。

妹は性格がはっきりしていて勝気なところが、試合には向いています。頭脳派で、技術もすぐれた蘭子さんと勝代のペアは、同じ年の県大会で早速、優勝を飾りました。そこからさらに全国大会(明治神宮第10回記念大会)に出場して、みごと団体優勝を果たしたんです。蘭子・勝代ペアは個人戦では全国第2位でした。九州の片田舎の鹿島から東京に出掛けていって、全国のテニスの強い人たちを相手に戦って、決勝戦では広島代表のペアを破ったんですからねえ……夢のような話です。

全国大会決勝戦の模様。手前が広島、向こうサイドが佐賀のペア(『鹿島ソフトテニス百年史』より)。

そのときの写真を見てみますと、対戦相手の広島のペアや他のチームの人たちはスコートや、ワンピース型のすらりとしたテニスウェアを着ていてすてきです。それに比べて、鹿島はウェアにかけるお金がなかったものですから、上は白い半袖の体操着に、下はやぼったい大きなちょうちんブルーマー、あの頃はひだ付きのブルーマーを履いて体操していたんですよ(笑)。それに気合を入れるため、はちまきを締めています。
それでもみごとに優勝できたのは、女学校のテニス部部長の並松先生が部員ひとりひとりをわが子のように可愛がって下さり、気にかけて下さり、テニスを強くするだけでなく、全人教育を施して下さったからだと思います。

恩師や仲間の前ではいつまでも女学生のまま


全国優勝はびっくりするような快挙ですから、勝代たち、大会に出場した一行が東京から鹿島に帰って来たときは、町をあげての大変なお祝いだったそうです。鹿島駅には学校の先生方や生徒をはじめ、関係者たちが集まり、それ以外にも町のあちらこちらから、大勢のみなさんが汽車の到着を待っていらしたとか。
祝勝会やパレードをして頂いたとも聞きましたが、私は当時、博多のおばの家から洋裁学校に通っておりましたので、残念ながら、直接には見ていないんです。
勝代いわく、「団体戦のときははだしでよかったのに、個人戦では、靴をはくように言われた、それで調子が違ってきて2位になってしまった」と。はだしのほうが力が出せたというんですね(笑)。
テニス部長の並松先生もやがて定年退職を迎えられて、故郷の大分へ奥様とお帰りになりました。宇佐神宮の近くにお住まいでしたが、私たち鹿島高女のテニス部員たちで、大分のお宅まで押し掛けて行ったんですよ。学校時代と同じように、先生を囲んでみんなで楽しくおしゃべりして、ごちそうになって……奥様にはまたまたお手数をおかけしてしまい申し訳ないことでした(笑)。

第14回明治神宮国民体育大会 鹿島高女庭球優勝記念の一枚。
2列目中央が並松誠先生、前列、右端に座っているのが勝代(『鹿島ソフトテニス百年史』より)。

並松先生の前では、いつでも真っ黒に日焼けしてボールを追っていた女学生に戻ってしまう私たちでした。昔の先生方はとてもお厳しかったですが、生徒ひとりひとりに親身になって、温かく接して下さいました。
テニス部の仲間たちとは、結婚をして、モードを始めてからもずっと友達です。鹿島市内や近隣の町にお嫁に行った人たちもいて、ある程度、歳をとってからは、ほとんど毎日、お店に遊びに来る仲間もいました。わざと鹿島弁まるだしで「ばばしゃんは、おいなっかにゃー(おばあさんはいらっしゃいますか)」とお店の入り口で呼びかけられるので、「ばばしゃんって、お店に来て言わんでよ」と私が言うと、「なんで? お互い、もうばばしゃんやろうもん」とこんな調子です(笑)。

若い時に体を鍛えることは大事です


『鹿島ソフトテニス百年史』に私と妹・勝代、両方とダブルスを組んだ白浜蘭子さんが寄せられた文章をご紹介したいと思います。
「私(白浜蘭子さん)は3年生の時は成松道子さん(成松は私の旧姓です)とペアを組み、4年生の時は妹さんの成松カツヨさんと組みました。お姉さんの道子さんは繊細華麗なるプレー、妹のカツヨさんは力強く果敢なるプレーでした。ご姉妹でもこんなに違うかと思うことがありました。いずれも優れた資質をお持ちの方々でございました。それに一番上のお姉さんの幸代さん、弟の平一郎さん、その奥さんの真佐子さん、さらには松操会(しょうそうかい=鹿島高等女学校の同窓会)七回生のお母さんまでテニスをなさったとのことですから、本当にテニス一家と言うにふさわしいことだと思います」

(「テニスへの思い 白浜蘭子」)
軟式女子庭球対抗競技優勝の賞状。個人戦では勝代・蘭子ペアは全国第2位だった。

私の母が女学校時代にテニスをしていた頃は、ちょうちんブルーマーのさらに前、大正時代のハイカラさんで、あの頃の女学生ははかまを履いていましたから、「はかまのすそをからげて(たくしあげて)」テニスをしていました。いまから100年くらい前ですね。
いまは日本のテニス選手たちが世界大会で、外国の選手たちにひけを取らず、りっぱに戦っていますけれど、スポーツ選手にならなくても、若いうちに運動をすることで身体と心が自然と鍛えられます。高齢になると、なるべく歩いたり、努めて動くように日々心掛けることが健康維持のために大事になります。元気で長生きするためにも、「若い時にスポーツをして、体を作っておくことは本当に大切ですよ」とみなさんに申し上げたいです。
私が今日、こうして元気でいられるのも、女学校の4年間、雨の日も風の日も1日も休まずにテニスを続けたおかげだと、並松先生やテニス部の仲間たちには感謝をしております。

インタビュー・文 樋渡優子
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