≪第14話≫ 私と洋裁――芸は身をたすく・その②
自分だけのささやかな楽しみの時間
博多の洋裁学校では2年間、縫製とデザインを勉強しました。縫製は服を仕立てるための実践的な技術ですが、私はデザインのほうが好きでした。私は自分がおしゃれ、というのとはちょっと違うんですねえ。洋服そのものがとても好きなんです。
4年前になりますけれど、93歳まではハワイに海外旅行に行っていました。もっと頻繁に海外に行っていた10年前、20年前は、ハワイに行っても、名所観光や美味しいものを食べることより、ショッピングモールに行ってお店を見て回るのが、一番の楽しみでした。ハワイのショッピングモールに入っている海外の有名ブランドのお店を見れば、流行りのデザインやディスプレイの仕方など、その時々の最先端のファッションに触れられます。それと……いつも仕事のことが頭にあるんでしょうねえ(笑)。
洋服は肩の部分が作るのも着るのもポイントです
私が婦人服のお仕立てを始めたのは、昭和24年にモード洋品店をオープンする少し前でした。昭和23年秋に、シベリアに抑留されていた主人が鹿島に戻ってきて、「さて、これから家族がどうやって食べて行こうか」と。お仕立てでは私がどんなにがんばっても、一日に作業できる量は知れています。「ならば、小物の販売と両方やってみよう」と婦人服のお仕立てと紳士用小物の販売の2本立てでスタートしたのが、モード洋品店の最初の姿でした。
お仕立て部門は、お客様から持ち込まれる各種着物や羽織、はかまを私が縫って、婦人物のワンピース、ジャケット、ブラウス、スカート、ズボンなどに作り変えていきました。
ある日、店にいると、私が仕立てたジャケットをお召しになったお客様が通りを歩いて行かれるのが目に入りました。後ろ姿を見た瞬間、「あっ、背中のところがうまくいっていない!」と気づいて、慌(あわ)てて追いかけて行ったんです。
「すみません。もう一度、やり直させて下さい」とジャケットを引き取って来て、お直ししたこともありました。通りでお召しになっているものをはぎ取るとは、まるで追いはぎみたいですねえ(笑)。本当にいたらぬことで、お客様には失礼いたしました。
洋服の中でも、ジャケットを仕立てるのは難しいものです。平面構成の着物と違って、洋服は立体的な造りになっていますが、お客様それぞれの肩の丸みにきれいに沿っていることはもちろん、袖の一番高くなった山の位置がとても重要です。
肩に対して腕が前についている方、後ろに反りぎみな方、ちょうど真ん中の方……さまざまですので、上着をお召しになったときにその方の骨格が一番映えるように袖がついていないと、仕立てとして合格点は頂けません。
いまだに洋服を見るとき、袖のところはどうしても気になります。去年の春、私の記事を書いて下さった若い男の新聞記者の方がうちでジャケットをお求めになりました。私がお見立てしたんですけれど、既製服なので、うちにあるものでは、私が思うようにはお身体に合わず……「これじゃだめだ」「あれもだめだ」と私があれこれ注文を言うので、とうとう孫の賢人が、「おばあちゃん、オーダーメイドじゃないんだから、そんなに全部はやり直せないよ」と困り果てていました。洋服のことになると、つい夢中になってしまいますね(笑)。
子供用の人形も手作りして販売
モード洋品店を始めた昭和24(1949)年頃は、日本中ものがなくて、みんなが不自由をしていた時代でした。たとえば、商品を買い付けに行っても、仕入れる物がないんです。子どもたちが持って遊ぶお人形さえありませんでした。モード洋品店最初のヒット商品になった「最後までよく燃える純綿のランプの灯芯」を作ったときと同じで、お人形も自分で作ることにしました。
お人形の頭、胴体、両腕、両足の形をそれぞれ作って、なかに綿を詰めます。つなぎ合わせて身体にして、頭には毛糸で長い髪の毛をつけました。髪が長いほうが三つ編みにしたり、いろんなヘアスタイルにして子どもたちが楽しく遊べますね。
あの頃の子どもは、丈の長い綿のエプロンを着ていましたので、赤い洋服に白いエプロンを着せて、頭には毛糸の帽子をかぶせたりしました。お人形の身長は30〜40センチと、いまの抱き人形より大きめですが、その理由は、当時はお人形を背中におんぶひもで背負って、子どもたちは遊んでおりました。お人形があまり小さいと、背中に背負ったときに顔が背中から見えませんから、それぐらいの身長がちょうどよかったんです。
私が一番楽しかったのが、人形の顔を描く作業でした。女学校の頃はテニスのほか、絵を描くことも好きでしたので、油絵を習っていました。絵の具で、目は黒で、口は赤でかわいらしく描いて、はい! 出来上がりです。
この人形もモードのお店に並べました。買って頂いて、いろんなお家に行ったことと思います。
たいてい夜は、家で仕立ての仕事をしていましたけれど、その合間に、人形の顔を描くときが好きでした。毎日、朝から晩まで働き詰めに働く私の気晴らしと申しますか、ささやかな自分の楽しみの時間でした。