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MICHIKO’S BLOG

2019年12月20日

≪第5話≫国際都市・大連で過ごした日々


昭和18年の春、結婚した私は、夫と鹿島から山口県の門司から船で釜山(プサン)に渡りました。朝鮮半島を北上して中国大陸に入り奉天、そして大連へと長い旅をして目的地にたどり着きました。奉天では日本との違いに強い不安を覚えた私でしたが、大連では落ち着きを取り戻しました。

瀋陽(しんよう)駅(戦時中の奉天駅)。戦後40年経った頃、姪が中国を再訪して撮影したもの。

当時の大連はロシア人、日本人、中国人、ヨーロッパから来た人々が混在して暮らす、国際色豊かな都市でした。いまの言葉でいうとグローバル都市、ですね。地形的には海の玄関口でもあり、ここで主人の両親と親戚は、大連ドックの鉄工所を経営していました。
それ以外にも、大連にいる日本人の数は多く、私たち若夫婦は主人の両親と一軒家に暮らし、お姑さんが手取り足取り若妻の私を助けてくれましたので、おかげさまで生活できました。
私たちが住んだ家は、外見は大陸風の2階建ての建物でしたが、中には日本の畳を敷いた和室もありましたよ。戦時中の日本に比べて、大連には物が豊富でしたが、お塩、お砂糖、お米など基本的な食糧は日本政府から大連にいる日本人にも配給が出ていたと記憶しています。

馬に乗る軍服姿の夫・四郎。

なんといっても、大連は大都会でした。街には各国の料理を出すレストランやさまざまなお店が立ち並び、西洋風の石造りの建物にダンスホール……とお洒落でした。一番にぎやかな繁華街の浪速町(なにわちょう)には百貨店が2つもありました。
主人の父はとても愉快な人で、ダンスが上手でした。ダンスホールで踊るには、チケットが要るそうで、「自分は背も高くないし、かっこよくもないから、チケットを何枚も渡してお金を使わないと、ダンスホールの女性たちが一緒に踊ってくれないんだ」なんて、ユーモアたっぷりに私たちに話してくれました。

ロシア人の毛皮のコートや帽子が珍しかった


大連の中でも、山の手のよい場所にはロシア人が住んでいて、いい生活をしていました。冬になると、その区域に住むロシア人たちは、ぶ厚い毛皮のコートと帽子を身に着けていました。日本人も中国人も、そんな上質のコートを着た人はいませんでしたから、「この人たちのコートは、私たちのとは質が違う……」と思いながら、私はふっくらした毛皮を興味ぶかく、眺めていました。帽子も上等の毛皮で、暖かそうでした。日本人もそう悪い生活をしていたわけではなかったですけれど、毛皮では本場のロシア人にはとてもかないませんでした(笑)。

大連時代の頃か、20代の道子。

中国の人も満州人、漢人、モンゴル系の人たちと、それぞれ着る物や髪型が違っています。私は洋服やファッションが好きですので、大連で他の人たちの装いを見るのは楽しみでした。自分とは違う体つきや目や髪の色をした、いろんな国の人たちのファッションや着こなしを身近に見られたのは、とても面白いことでしたよ。
中国人たちが「メイファーズ(没法子)!」とよく言っていたのを、いまでも思い出します。「どうしようもない、仕方がない、なんとかなるさ」という意味だと思いますが、中国の人たちはまるで口癖のようにメイファーズと日に何度も口にしていました。
私たち家族が住んでいた家では、家庭菜園を作っていました。庭がけっこう広くて、門から家の玄関まではかなり奥行きがありました。玄関の前には右と左に、桜や桃の樹がずっと植えられていて、春になって、花が咲き出す頃は日本の桜並木のように見えてきれいでした。親類や知り合いが集まって、みんなでお花見をしたのを覚えています。

面倒見のいいお義母さんに助けられて


主人のお母さんは、本当に人のよいところがありました。他人にふるまうのが大好きで、家でお客さんを十数人呼んで、集まりをするとするでしょう? すると帰りにみなさんに、「これを持ってきござい、あれも持ってきござい」と、家にあるものを何でもあげてしまうんです(笑)。お母さんや私が新聞紙で野菜を包んでいる間に、もう通りに出てしまった人がいると、追いかけて行ってまで、お母さんは包みを渡していました。
私の主人は軍隊式でしたが、そういう気前のよいところはお母さんに似ていました。主人のお姉さんも同じでしたから、東島家の人たちに共通の性格だったのでしょうね。家庭菜園でとれた野菜はもちろん、配給でいただくお砂糖やお塩まで渡してしまって、後になって、「あら、うちの分がないわ!」ということもしばしばでした(笑)。
九州に比べると、大連の気候は寒いです。昔は医療事情も悪く、子供たちが成長する前に病で命を落とすことも、いまよりずっと多かったんです。主人のお母さんも、はしかやその他の病気で、子どもを何度も失くしておられて、無事に成人したのは主人のお姉さんと主人の2人きりでした。
そういう事情も手伝ってか、私たち若夫婦の面倒もよく見てくれました。私がぬか床でお漬物をつけようとすると、「ああ、しなくていい、しなくていい。手が汚れてしまうから」と何でも自分が引き受けてしてくださるお義母さんでした。

40年後に残っていたもの


大連で暮らしたのは、1年半くらいです。私たちが大連にわたったその年の10月、主人の父が他界しました。昭和19年、私は長男を身ごもりましたが、戦争が激しくなり、主人は大連から戦地へ赴(おもむ)きました。「だんだん大連も危なくなってくるだろう……」という話になり、初産をひかえた私は日本に帰ることになり、主人の母と一緒に大連から鹿島に帰ってきました。

長男秀行を抱いて。終戦後、夫はシベリアに抑留され、帰ってきたのは3年後だった。

昭和20年4月、長男の秀行が生まれましたが、主人はいませんので、私と赤ん坊で、実家の清川に身を寄せました。8月15日、戦争の終わりを告げる天皇陛下(昭和天皇)のラジオ放送をみんなで聴きました。場所は清川のどこかだったのだろうと思いますが、どこで聴いたかまでははっきり覚えていません。あのとき私たちは、天皇陛下の御声を生まれて初めて拝聴したのでした。

戦時中、道子が夫・四郎と夫の両親と暮らした大連の家。40年経っても、思い出の桜や桃の樹は変わらず立っていた。
主人の姉の娘……私たちにとっては姪にあたりますが、大連と北京で育ちました。小さい時からいましたので、中国語もよくできて、通訳をつとめるほどでした。戦後は東京の築地で商売をしていましたが、戦争から40年以上たって大連をふたたび訪れました。
そして戦時中、私たちが住んでいた家も探しあてて、写真を撮ってきたんです。家の内部は、持ち主が何度も変わるうちに、壁の色も変わっていたそうです。もちろん調度品や家具にも私たちが暮らした頃のなごりはなく……。
長い年月が経っていますので、写真を見ると、建物の外観もたいそう古びていました。ただ、あの門から家の玄関へと続く桜と桃の並木だけは、あの頃と変わらずに立っていました。
インタビュー・文 樋渡優子
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