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MICHIKO’S BLOG

2020年1月10日

≪第7話≫ 健康の秘訣②
イライラしない心の持ちようもテニスから学びました


今日は前回に続き、女学校時代のテニスのお話です。
女学校のとき、ダブルスを組んでいたのは白浜蘭子さんでした。私が前衛で、蘭子さんが後衛。蘭子さんは秀才で、テニスの技術もとてもお上手でした。私が卒業した後、蘭子さんは私の妹の勝代とペアを組んで、全国大会で優勝を果たしたんですよ。これは大変な快挙でした。

部活のおやつが楽しみでした


毎日、放課後にテニスの練習をしていると、若いのでお腹がすきます。蘭子さんは甘え上手な一面もお持ちで、テニス部長の並松先生に、「ああ、お腹がすきました。お腹がすいて、これ以上は一歩も動けません」なんて言い出すんです(笑)。そうすると、並松先生は、祐徳まんじゅうという菓子店に、私たちのおやつを注文して下さいました。
お店から届けられる木箱には、おまんじゅうや蒸しパン、餅菓子などがいっぱい入っています。これが嬉しくてねえ……みんなで遠慮なく、毎度、楽しくご馳走になっていました。蘭子さんの「ああ、お腹がすきました……」は「そろそろ、おやつが食べたいです」という意味でした。みんなの気持ちを代表してそう言い出す蘭子さんでしたが、実際、甘いものが大変お好きで、「甘いものを食べたら元気になるね!」といつも言われていたのを覚えています。

鹿島高等女学校時代の道子。制服はセーラー服だった。毎日テニスに明け暮れていた頃。

いま思えば、テニス部員は20人ぐらいいたんです。並松先生はあんなにしょっちゅう、私たちのおやつをお店に注文していらして、お給料の大変な額がおやつ代に消えてしまっていたと思うんです。でも、私たちは世の中を知らない子どもでしたから、何にも考えずに無邪気にお世話になっていたというわけです(笑)。
私が女学生だった頃は、まだ戦争が始まる前です。のどかでした。並松先生は桜の名所で知られる旭ヶ岡(あさひがおか)公園のてっぺん近くにある鹿島高等女学校から坂をおりたところの〝城内(じょうない)〟という地区に住んでおられました。佐賀県の一番東の鳥栖高女から、一番西にある鹿島高女に転勤して来られていました。

毎日練習していてもスランプは来るものです


ダブルスの相棒・蘭子さんがテニス選手として優れている点は、自分で戦略を建てられることでした。試合前に5、6分、対戦相手とラリーを打ち合う時間がありますね。そのわずかな時間に、今日の相手のコンディションや、攻めるべき穴や弱点を読み取るんです。

「相手の後衛はバックが調子が良くないようだから、そこを意識して攻めましょう」とか、「前衛のポジジョンはなるべく動かさないでいきましょう」とペアの私にも指示が出ます。そんなふうに、ゲームの組み立てを自分でさっとできるプレイヤーは、なかなかいないですよ。
テニス部長の並松先生のたてられる作戦と、蘭子さんの冷静さと機転に助けられて、私は毎回、ゲームにのぞみました。
スポーツはなんでもそうだと思いますけれど、テニスの試合運びにも性格が出ます。私のプレースタイルですか? そうですねえ、淡々としているタイプだと思います。自分が狙った通りにいかなくても、思った場所にボールが行かなくてもカリカリしないというか、気分の上がり下がりがあまりないほうでした。

テニスで鍛えた身体と強い心でお店に立ち続けてきました。

テニスにも辛抱が要ります。ゲーム中、波がこちらにきていないときは何をしてもダメ。じっと耐えるしかありません。次の波が来るのを捕まえるには、強い精神力が必要になります。毎日一生懸命、練習していても、スランプに陥るときが必ずあるもので、おかしなぐらい球が思った場所に入らなくなります。 
これがまた、どうしようもないんですねえ。でも、あまり一喜一憂せず、練習を続けていくと、いつの間にかスランプを抜け出す。女学校時代は、何度もそういう波にあいました。そういうときは、「調子がおかしいなあ」と思いながらも、考えすぎたり、イライラしないように心掛けました。これは元々の性格も関係していると思いますけれど。
心配ごとが絶えずあっても、「考えてもしようがない」「なんとかなるさ」と思って、すぐに寝てしまうのは、女学校時代、テニスをしていた頃の経験から出てきた態度だろうと思います(笑)。

インタビュー・文 樋渡優子
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