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MICHIKO’S BLOG

2020年6月30日

≪第24話≫ 金ちゃんうどん開店!②
お正月には1日2000杯売れました


1964(昭和39)年10月10日、東京オリンピック開会式の日に佐賀市に開店した「金ちゃんうどん」のお話の続きです。
去年の夏、私が97歳を迎えた8月25日から、佐賀新聞に『地域に愛されて 東島道子物語』という連載記事が6回載りました。第1回の初めに、うちが以前、金ちゃんうどんのお店をしていたことに触れました。そうしましたら、新聞を読んだ方から「金ちゃんうどんはモードさんがされてたんですか!」とか、「金ちゃんうどんは僕の青春そのものでした」といった反響がいくつも届きました。
鹿島の人たちには、「モードが佐賀でうどん屋さんもしていたとは知らなかった」という驚きがあり、一方、佐賀の人たちには金ちゃんうどんにまつわる思い出を、懐かしく、思い起こしていただいたようです。

「いますぐ手伝いに来るように」と電話が……


同じ県内でも鹿島市から佐賀市までは、いまでも車で45分ほどかかります。金ちゃんうどんを始めてから、主人は鹿島からバスに乗って佐賀に出かけてゆき、夜の営業が終わると、最終バスに乗って、鹿島に帰ってくる生活に変わりました。そのうち、自家用車で行き来するようになりましたが、うどんに入れるネギなどの野菜や材料を鹿島から車に乗せて行っていたのを覚えています。
主人は金ちゃんうどんで働き、私は鹿島でモードの3店舗を切り盛りする役でした。ありがたいことに金ちゃんうどんには沢山のお客様にお越しいただきまして、お昼時はお店の外にまでお客様が並んで順番を待っておられるほどの繁盛ぶり。そういう時は主人から私に電話が来ました。
「いまこっちのお店が忙しいから、すぐに手伝いに来なさい」と言うんですねえ(笑)。お店のことをスタッフに任せて、私は鹿島から佐賀へ向かうバスに飛び乗りました。でも、金ちゃんうどんに着くには、どんなに急いでも1時間以上かかります。

当初は1階のみだった店舗は2階まで拡張された。新装オープンした頃の写真。

私が到着する頃には、お昼の混雑のピークは過ぎて、お客様たちはすでにお帰りになった後……「来るには来たけれど、手伝うことがないなあ」ということがよくありました。それでも主人はせっかちで、お客様をお待たせするのが一番いやな性格ですから、電話で呼ばれるとすぐに佐賀に駆けつけました。それからまたバスに乗って鹿島に戻り、モードで8時か9時頃まで働く。若かったとはいえ、よく続いたなあと思います。

きつねうどん40円、鍋焼きうどん150円


開店当時の金ちゃんうどんのお品書き(メニュー)を、娘の麻貴が思い出してくれました。
・かけうどん 30円
・きつねうどん 40円
・たぬきうどん 40円
・並天うどん 80円
・特天うどん 150円
・ごぼう天うどん 50円
・肉うどん 100円
・釜揚げうどん 80円
・鍋焼きうどん 150円
このほか、ご飯ものはいなりだけで3個入り50円です。並天は小海老の天ぷら、特天は大海老天ぷらでした。

作りたかったのは、誰もが気軽に立ち寄れる店。
お昼時は行列ができるほどの人気で、金ちゃんうどんは佐賀の街に定着していった。

高校生だった麻貴も手の足りない時は土曜、日曜、手伝いに佐賀まで行っていましたが、お正月には売れに売れて、1日に2000杯のおうどんが出たこともありました。高度成長期と呼ばれた時代を含め、昭和30年代~40年代は日本の経済がとても活気のある時期でした。

〝カンピューター〟が私の得意技


洋服のお店は、お店に並べるための在庫を切らすことなく、一定数持っていることが重要になります。私はこの在庫の管理――たとえばスカートだったら、いまうちの店には、どんな色で、どんなデザインの商品がそれぞれ何着ぐらい在庫にあるか、いつも正確に頭に入っているほうでした。「大体これぐらい」と帳簿を見なくても当たるので、スタッフからは〝カンピューター〟と呼ばれていたものです(笑)。
さすがに90歳を過ぎてからは〝カンピューター〟もサビ付きましたが、洋服のお店というのは、洋服を買い付けて、お客様に買っていただいて初めて利益が出ます。ですから、在庫をどのぐらい持つかは大問題なのと、品物を買い付けてから売り上げたお金が手元に入るまでに、ある程度時間がかかります。それに比べて、飲食店はその日のうちに売上が現金で入りますので、お金の動き方が違いますね。
お店を回していくには日々、あれこれ経費が要りますが、金ちゃんうどんを始めてからは毎日、現金収入があるようになって助かりました。

こちらは鹿島のモードの新装開店風景。商品の在庫管理は道子の得意な分野だった。

最初の頃は、売上金を袋にお金の種類ごとに分けて入れて……5円玉、50円玉はバラバラにならないように、真ん中にひもを通して、持ち運んでいました。毎晩、主人が持ち帰る袋を開けて、お金を数えながら、「ああ、これで明日の支払いができる」と思うとほっとしましたし、嬉しかったですよ(笑)。

みなさまの思い出に残るお店に


金ちゃんうどんのあった松原神社周辺は繁華街でした。歩いていける場所に佐賀市民会館があり、人気歌手のコンサートや舞台が上演されていました。公演が終わって、ちょっと小腹がすいた時に家に帰る前に気軽に立ち寄れるうどん屋さん……金ちゃんうどんは、お昼はサラリーマンの方やご近所で働いている方たちがお食事にみえ、夕方は部活帰りの高校生や学生のみなさんも多かったですね。
最初は一階だけが店舗でしたが、やがて二階も拡張しました。夕方になると二階に学生さんたちが集まって、わいわい賑やかでした。去年の佐賀新聞の記事を読んで、「金ちゃんうどんは僕の青春でした」とおっしゃった方は、あの頃の学生さんのおひとりでしょうか。

秀行が高校生、麻貴が中学生の頃の家族写真。子供たちにすでに道子の背を追い抜いている。

主人が金ちゃんうどんを始めた時、「佐賀に名物を作りたい」という気持ちから、みなさまにお出ししたご挨拶のはがきの末尾に「名物うどん 金ちゃん」と書き記ししました。金ちゃんうどんは平成14(2002)年まで37、8年間ご愛顧いただきましたが、多くのみなさんの記憶に、金ちゃんうどんで過ごした時間や味が思い出としていまも残っていることを、主人もきっと喜んでいることと思います。

インタビュー・文 樋渡優子
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