SAGARICHがお届けする
パーソナルストーリー
TOP | MICHIKO'S BLOG | episode28

MICHIKO’S BLOG

2020年8月10日

≪第28話≫ お店に一番大事なのは「人材」です②
子供たちが成長し、一緒に働き始めた頃


私が洋裁を始めたのは、鹿島高等女学校を卒業し、博多の洋裁学校に入学した二十歳前のことです。そこで習得した新しい技術(和裁に比べると、洋裁をする人は多くない時代でした)を生かして、戦後、お客様のお仕立ての注文を取るようになり、夫とモード洋品店を立ち上げて早70年が過ぎました。考えてみれば、洋服との付き合いも80年近くになりました(笑)。
鹿島は佐賀鍋島藩のご分家が置かれた城下町です。そういう土地柄のせいか、踊りやお謡(うた)いなど、芸事に親しむ方たちが珍しくなく、また芸達者の方が多いんですね。商店街のおかみさんたちも何かしら芸事を習っていて、おかみさんたちの集まりがあると、踊りを披露したりされていました。あの頃、踊りも歌もしていないのは、おかみさん連中の中でおそらく私だけだったと思います(笑)。

東島四郎・道子夫妻。長男秀行が縁のあったハワイには、社員旅行を含め、何度も訪れた。

この8月で98歳になりますが、「いま何がしたいですか」と聞かれて、「もういっぺん、書道を習ってみたいなあ、油絵も描いてみたいなあ」と思い浮かぶのは、ずっと仕事以外のことはせずに来たせいかもしれません。

さまざまな思いと人の縁


長女の麻貴とはお店でも、自宅でも一緒におります。麻貴は小さい頃からお店のお手伝いをよくする子供でした。私がお金のやりくり算段で、四苦八苦しているのを日ごろから見ていたせいでしょう、「月に1回、集金に来る取引先のおじさんたちは悪い人だと思っていた」と言います(笑)。
主人は昭和20(1945)年8月に戦争が終わった後、3年間、同じ隊の人たちと共にシベリアに抑留されていました。昭和23年の秋、無事に鹿島に帰ってきましたが、戦争中、中隊長を務めていた主人は部下の方たちを先に帰国させて、自分は最後までシベリアに残りました。モード洋品店を始めてからも、時折、当時の部下の方が主人を訪ねて来られましたね。

3坪のお店を始めた時から、いつも二人三脚で歩んできた(60代の頃、ハワイ・パンチボウルにて)。

戦後は世の中の仕組みも様子も、それこそ着るものからそれまでとは大きく変わりましたから、新しい生活になじめなかったり、苦労していることを、主人にお話しになっていたのでしょう。何より仕事がない、生活が苦しいという悩みを言われると、主人はお金を渡しておりました。うちもお金がなくて、始終ピーピー言っている時でしたけれど、それが中隊長だった主人と、同じ部隊で厳しい経験を共にした方たちとの結びつきの強さだったのだろうと思います。

「誓いの詞(ことば)」と「モードの祈り」


麻貴は鹿島高校を出て。東京の大学に通いました。在学中は築地市場で漬物問屋を営んでいた姪(主人の姉の娘)の店でアルバイトをしていました。この姪は、私が戦争中、夫と結婚して、大連にいた時期に一緒でしたが、昭和19年、戦争が終わる前年に、長男がお腹にいた私は主人の母と一緒に、大連から鹿島に戻りました。
麻貴は経理関係の勉強をして、大学を卒業してから東京のアパレル関係で働いた後、鹿島に帰ってきました。しばらくモードを手伝っていましたが、やがて、同じ鹿島市出身の山口健次郎(現モードファッショングループ社長)と結婚して、大阪の堺市に参りました。社長はその頃、小売業では時代の最先端をゆく大規模ショッピングセンターのマイカルに勤務していまして、創業者の西端行雄(株式会社ニチイ社長)・春枝ご夫妻が掲げられる経営理念を、深く尊敬していました。
前にお話ししましたね。毎朝、うちのスタッフたちと朝礼で唱和する「モードの祈り」は、この西端社長が創られた企業メッセージ「誓いの詞(ことば)」をお借りしたものです。


「人の心の美しさを
商(あきな)いの道にいかして
只(ただ)一筋にお客様の生活を守り
お客様の生活を豊かにすることを
モードの誇りと喜びとして
日々の生活に精進(しょうじん)
いたします。」
モードの社員旅行でハワイへ(1996年8月)。
中央の男の子が賢人さん(現専務)、その後ろが社長の山口健次郎氏、その左が麻貴さん。

主人や私が戦後、新しいビジネスを学ぶために毎年、参加した商業界ゼミナールに、サラリーマン時代の社長も参加していたと、麻貴と結婚してから話すうちにわかりました。「類は友を呼ぶ」ではないですが、同じものをいいと考える人が家族と経営の一員に加わって、主人と私、スタッフたちを娘と共に支えてくれたことは、願ってもないめぐり合わせと感じます。

娘夫婦が加わってモードは2世代に


娘夫婦が大阪にいた昭和52、3年頃は、鹿島にもお店が増えてきた時期でした。洋服を扱う店も沢山できてきまして、麻貴は「あの頃、うちの店のある通りの端から端まで歩いてみたら、13軒、洋品店があったよ」といったぐらいです。同種のお店が増えると、競争が生まれます。50代に入っていた私たち夫婦も相変わらず、とても忙しくて、無理がたたったのでしょう、私は胆石で入院しました。

創業者の道子さんと社員・スタッフを支えるモードファッショングループの柱・山口健次郎・麻貴夫妻。
2018年佐賀幕末維新博覧会会場にて。

癒着があったため、回復に長くかかり、お店に復帰するまで半年かかりました。あれは私の人生の中で一番長い、入院期間でした。あんなに長くお店に出なかったのは初めてです。
堺から飛んできた麻貴夫婦は、主人と私の暮らしぶりを見て、改めて驚いたそうです。モード洋品店を開業してから四半世紀が経っていましたが、「これは自分たちが手伝わなければ、店が立ち行かない」と思ったようで、娘婿の健次郎はマイカルを退職して、私たちと一緒に働く決心を固めました。
麻貴は、あの時のことを思い出して、「『このまま堺と鹿島に離れたまま暮らしてたら、人生でお母さんと一緒にいる時間はあとどれぐらいだろう』と考えたとよ。1年に何度か帰省できたとして、1週間か10日程度、それが数十年……お母さんとそれだけしかいられないのは嫌だなと思った」と申します。
長男の秀行もお洒落やファッションは好きでしたが、それを仕事にするより、モードグループのもう一つの芽、金ちゃんうどんから派生した飲食関係への関心のほうが強かったのです。
私も復調して、半年ぶりにお店に立ちました。思い返せば、あのときの私の入院がきっかけになったのでしょうねえ。娘夫婦が加わって、2世代で働くようになったモードは新しい段階に入っていきました。

インタビュー・文 樋渡優子
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 |