聞き書きを終えて
(『東島道子物語』ライター)
東島道子さんのお好きな青空が広がる秋の日、物語を書き終えられていま、ほっとしております。
2020年はコロナ禍によりこれまでの世界と、これからの世界のことを誰もが考えざるを得ない深刻な情況が出てきましたが、いまから20年前……21世紀に入る頃から、「オーラルヒストリー」と呼ばれる〝口述で歴史を語る形式〟が注目され、取り上げられるようになってきました。
東島道子物語もそうしたオーラルヒストリーと言えるでしょう。気候温暖な九州の料亭の娘として生まれた道子さんが、部活動のテニスに打ち込む高等女学校時代を経て、当時新しい技術だった洋裁を学び、戦時中に結婚をして、夫婦で夫の家族が鉄工所を営む大連へと渡ります。
夫の四郎さんは映画『男はつらいよ』で有名な山田洋次監督も卒業した大連の中学校(旧制)の出身。新しいものと絵を描くことが好きで、夫婦は戦後、二人の子供を抱えて、佐賀県鹿島市で「モード洋品店」を開店します。
そこから70年が経ち、お孫さんの賢人さんの発案で、創業当時の苦労も含め、道子さんの話を書き残すことで会社と家族の次の世代の財産としたいと、東島道子物語の聞き書きのためのインタビューが始まりました。
道子さんを一言でいうならば、芯から美しい人、です。
物腰はやわらかく、ほんわかとしたユーモアも交えた話しぶりからは、移り変わりの激しいファッション業界で70年間も過ごされてきた方とは想像できないほどなのですが、お顔を見るだけで心が和らぐようなたたずまいをお持ちの方。モードのお客様たちが道子さんを慕って長きにわたって、家族ぐるみでお付き合いなさる、その気持ちがよくわかります。
お話をうかがう中でとても印象深かったのが、道子さんが受けた戦前の高等女学校の教育が非常に豊かだったこと、そして、その当時の教えが道子さんのその後の人生の大事な柱となって、今日まで支えていることでした。
文武両道と申しますが、道子さんの身体と精神を作ったテニスの部活動での鍛錬は、「スランプとは理由もなく陥るもので、気にしすぎても抜け出せない」「何か気がかりがあっても、なんとかなるさ!」と寝てしまうという生きる上での逞しさにつながり、書道や油絵に親しむ心や、明治天皇のお歌を辛い時には自分なりに口ずさんで、心を静めてきたというエピソードは、教育が人を育てることの大切さや意味について、改めて考えさせられました。モードファッショングループの「大黒柱」である道子さんの存在感の揺るぎのなさは、少女時代から培われてきた人間的深みによるものです。
それに加えて、道子さんを支えるご家族の献身……モードが30周年を迎え、道子さんが長期入院した折、「これから先、母と離れて暮らすのは嫌だと思いました」という長女の麻貴さんと「玄関のある家で死にたいという義父の願いをかなえてやらなければ」と会社を辞めて、モードを手伝う決意を固める娘婿の健次郎社長。このお二人の尽力はモードという会社が人を育て、店舗を広げ、グループとして成長していく、またとない推進力となって今まで来られています。
家族が仲良くなければならない、という当たり前のことを会社の方針として口にできるファミリー会社がどれだけあるでしょうか? 東島道子物語の中に麻貴さん、健次郎社長、お孫さんの賢人さんのお話を入れ込みましたのは、家族の強いきずなが経営の基礎となっている、これがモードファッショングループの真髄と感じたのが理由です。
そういう素晴らしいご家族と社員の方たちに助けられてのインタビューと、サガリッチに連載を続けていく作業はとても楽しいものでした。掲載されたさまざまな沢山のお写真は、日本のファッション史の大切な資料でもあると存じます。
伝記やオーラルヒストリーを読む楽しみは、その方の人生を通して、自分が生きたことのない時代が自然と理解できるようになること、また他人(ひと)の人生について考えることは、自分の人生を日々生きて行く上での大切なアドバイスが得られたり、エネルギーにつながります。
東島道子物語に触れた方たちが、道子さんのようにしっかりとした美しい生き方を歩めますよう……道子さんのようにひたむきに正直に生きてきた方たちが作り上げた風土の上に、私たちが今日も暮らしていることを一つの自信とし、コロナ禍で先の見えない中ではありますが、「私たちはひとりぼっちじゃない。なんとかなるさ!」と明日を向く力になれば、お話を文章にまとめた者としてこんなに嬉しいことはありません。
道子さん、どうかいついつまでもお元気で。
道子さんの大切な人生を見せていただき、ありがとうございました。
広く澄み渡った空の下で