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MICHIKO’S BLOG

2020年7月10日

≪第25話≫ 金ちゃんうどん開店!③
ダニエルさんがやってきた(前編)


私の母、成松ツルは料亭「清川」の跡取り娘でした。「清川」はおかげさまで100年以上続いておりますが、銀行に勤めていた父を私の祖父が気に入って、母と結婚させたそうです。結婚して、私たちきょうだい4人を産んだ母は、「清川」のおかみさんとして、朝から晩まで立ち働いておりました。
私が子どもの頃、早朝、鹿島市内の農家のおばさんたちが、「奥さんはおんしゃんなた?(奥さんはおられますか)」と野菜を売りに、母を訪ねて来られていたのを覚えています。野菜を載せた荷車を引いて。
母は白い割烹着がまるで制服のようでした。割烹着姿で毎日朝から晩まで働いているので、「割烹着以外のおかみさんを見たことがない」とみなさんに言われていたほどでした(笑)。

料亭のおかみさんだった母に支えられて


母はお客様一人一人の好みもすべて承知していて、「〇〇さんは☓☓がお好きだから、今日のお刺身はそれをお出しして」とか、きめ細やかに厨房に指示を出しておりました。「おかみさんに言っておけば、あとは任せて安心」とお客様の信頼が厚い母でした。
私にとっても頼れる母で、戦争が終わって、主人がシベリアに抑留されたまま3年間、帰ってこなかった間、夫の留守中に生まれた息子の秀行と私は「清川」に身を寄せていました。

大連から昭和19年の秋に鹿島に帰り、昭和20年4月に長男秀行を出産。
夫は戦争に行っていたので、秀行と二人の記念写真。

昭和23年秋に夫が鹿島に無事に帰ってきまして、昭和24年にモードを開店し、同年8月に娘の麻貴が生まれましたが、母は〝おばあちゃん〟として、働きながら、孫の世話もよくみてくれました。子供二人が成長していく上で、母の支えがあったからこそ、私も夫も精一杯、働くことができました。
昔は誰でも食べていくために必死で働いたわけですが、私の場合は、母が「清川」で働いていましたので、お客様商売に対して自然と身に付くものが多かったんでしょうねえ。それは自分が「モード」を始めてから、とても役に立ったと思います。
娘は、私が年をとってからは、「おツルおばあさんとお母さんは外見もよく似てるよ」と申します(笑)。

好奇心が旺盛で、旅好きな長男秀行


モードを始めてからは無我夢中の日々でしたので、私も主人も子供たちのことでは、気が行き届かないことはあったと思います。息子の秀行は元気な子で、4つ違いの妹の麻貴の面倒をよくみました。妹が小さいうちは、おんぶひもで背中にしょって、お店の近くで遊んでいましたし、娘も小さい頃からお店の手伝いをよくしましたよ。
「清川」は一時、タバコの販売もしていて、モード1号店の店舗の一角がタバコ売り場コーナーになっていました。全国共通の「たばこ」の看板が目印に出ている、あれですね。いまと違って、当時は男の人は大半がタバコを吸いましたから、タバコは飛ぶように売れました。お客さんが買いにいらっしゃると、タバコやお金の受け渡しを子供の頃から麻貴は私の近くにいて、手伝ったものです。

昭和30年頃のモード。清川の続きにあって左側の角に「たばこ」の看板が読める。
長女麻貴、タバコ売り場の前で。

秀行は子供の頃から好奇心旺盛というのか、気が向くと行動に移す性格でした。とにかく旅好きなんです。小学校6年生の頃には、週末は一人で自転車旅行に出かけていました。
その頃から、わりと遠くまで行ってたらしいんです。中学生になると今度は1泊してきたり……お寺さんの境内に野宿したり、バス停の停留所で寝泊まりしながら、九州一周に挑戦したりもしていました。ほとんど無銭旅行に近い形で鹿児島まで行って帰って来たことも。
こちらはあんまり気にも留めずに、秀行が帰ってくると話を聞いて、「ああ、そんな遠くまで行ってたの」というぐらい。いまならもっと親は心配しないといけないんでしょうけれど(笑)、あの頃は社会全体が今よりのんびりしていたのと、秀行の性格を考えますと、「どうせ止めてもねえ」と私が言うと、「うん、どうしようもなかったもんねえ」と息子も答えるといった具合なんです(笑)。

インドからSOSの電話が!


金ちゃんうどんが開店した昭和39年の東京オリンピックの時は、秀行は19歳で東京の大学に行っていましたが、卒業後は「食べ物関係の仕事をしたい」という希望を持ち、そのために見聞を広げたいとフランスのパリに参りました。「月刊食堂」という当時はほとんど唯一のレストラン・飲食店の業界誌がありましたが、そちらの編集長の方にお世話いただきました。

夫四郎と子供二人の写真(モード店内で)。この頃には秀行は自転車であちこち出かけていた。

1年ほど向こうにいて、帰りはパリからまっすぐ飛行機ではなく、安い交通手段を選びつつ、船、電車、バスなどを乗り継ぎ、あちこちを旅行しながら日本に帰ってきたのですが、その途中で、「身ぐるみ剥(は)がれた」とインドから連絡が来ました。なんでも荷物を取られたので、JALのインド支店長さんに助けを求めて、そちらの支店から鹿島に国際電話してきたんです。
あの頃は海外に気軽に旅行に行く、というふうにはまだなっていませんでしたから、何か緊急のことや困った時にはそうやって日本の航空会社が頼りになったというか、日本人のために親切にして下さってたんですね。
このときは私もびっくりしまして、お金も支店長さんにお借りしているというので、翌日、福岡の空港か港のインドのJAL支店に送金できる特別な郵便局まで行って、お金を為替で送りました。
そこからしばらくして、おかげさまで息子は1年ぶりに鹿島に帰ってきたのですが、一人じゃなかったんです……。

(後編につづく)
インタビュー・文 樋渡優子
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