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MICHIKO’S BLOG

2019年12月30日

≪第6話≫ 健康の秘訣①
私の身体は、女学校時代のテニスで鍛えられました


みなさん、今日もお元気でお過ごしでしょうか?
みなさんが私に興味を持っていただく際、頭に思い浮かぶのは「97歳になって、どうして毎日、元気で働いていられるのだろう」ということだろうと思います。長く生きてまいりましたので、これまで何度か病気で入院したり、手術もいたしました。とくに4年前に左の大腿骨(だいたいこつ)を骨折してからは、日曜以外は毎日、自宅近くの施設でリハビリやマッサージをしてから、お店に来ております。モードのイベントがあったりして、忙しいときをのぞいて、ふだんは午前中はリハビリ、お店にいるのは午後からですねえ。

ハワイ旅行で夫・四郎と(70代)。いつもスカートをはいているので、パンツ姿はめずらしい。海外には90代の初めまで旅行していた。

リハビリでは骨折した箇所をできるだけ動かすように、いろいろな運動をします。筋肉が固まってしまわないように努めないと、足を動かせる範囲がだんだん狭まってしまうそうで。歩けなくなると働けなくなりますので、困りますね。
骨折して以来、歩くときは杖を使うようになりましたが、自分では「身体はなんともない」「悪いところもないし、元気」という感じを持っています。よく眠りますし、食欲旺盛です。朝からご飯をお代わりして食べるので、娘夫婦には「朝からよう食べるねえ」と笑われます。私は4人きょうだいで、姉、妹、弟、他のきょうだいと比べて、子供の頃はそう丈夫ではなかったんですよ。それがこうして一番長く生きておりますのは不思議です。

母も女学校でテニスをしていました


「一体、いつ丈夫になったのかしら」と考えて思い当たるのは、女学校時代、テニス部に入って、それこそ一日も休まず、練習に励んだことです。本当にテニスには鍛えられました。
いまでもスポーツでは、テニスが一番好きですねえ。テレビで試合を写していると、よく見ます。錦織圭選手や大坂なおみさん、その他の若い選手たちも、いまは海外の大柄な選手たちと互角以上の戦いをしていますでしょう? 私たちの時代は、日本人が海外に出て試合をして勝てるなんて、なかなか想像ができませんでしたから、「すごいなあ」と感心しながら拝見しております。

女学校の頃の道子。京都に修学旅行に行った折、渡月橋(とげつきょう)にて。

私が女学校でしていたのは、硬球ではなくて軟球です。鹿島は『鹿島ソフトテニス百年史』(2012年刊)があるくらい、軟式テニスの歴史が古いようです。私の母も、鹿島高等女学校時代にはテニスをしておりました。母が若かった頃は、まだ日本の女学生ははかまをはいていましたので、「それこそ、はかまのすそをからげて、テニスしてたよ」と母は笑って話をしていました。
母もテニス、姉の幸代も鹿島高女でテニスをしていましたので、あまりよく考えずに、私も入学したら部活動でテニスを始めました。1936(昭和11)年、いまから83年も前ですけれど、テニス、バスケット、バレーボールなどいまも親しまれている球技は、その当時も部活動や体育の授業でありました。名前はそれぞれ庭球(ていきゅう)、籠球(ろうきゅう)、排球(はいきゅう)と呼んでいましたが。テニス部は庭球部ですね。
女学校の体育の授業ではランニングもしました。水泳は学校にプールがなかったのでしませんでした。卒業生名簿を見ますと、昭和14年に私の学年は96名が卒業しています。そのなかでテニス部に所属していたのは、15人から20人くらいだったと思います。

雨の日も風の日もテニステニス


私はね、子供の頃のあだ名が「泣きべそみっちゃん」だったんです(笑)。2つ下の妹の勝代のほうがよほど活発で、体もしっかりして。口喧嘩しても勝てたためしがない。そんな私が、女学校でテニスを始めてからは、卒業するまでの4年間、文字通り、テニスに打ち込み、毎日、必死でみんなと練習しました。
本当に、一日のお休みもないんです。お盆もお正月も夏休みも冬休みもテニス、テニス、テニス、雨の日も嵐の日も雪が降っても、テニスの稽古です。
私たちを鍛えて下さったのは、テニス部長の並松誠(なみまつまこと)先生でした。並松先生は50代でいらしたと思いますが、本当にお人柄のすぐれた人格者でいらして、指導力が抜群でした。並松先生はテニスの実技はそれほどお得意ではなかったので若い男の先生と、女の先生がおひとりずついらして、私たちに実技を十分に指導されました。テニス以外のときは並松先生は古文の先生でした。

並松先生(写真中央)を囲む庭球部の部員たち。一番右が妹の勝代。勝代は道子の卒業後、全国優勝を果たした。(写真は『鹿島ソフトテニス百年史』より)

合宿や修学旅行など、学校の行事にどこかに出かけるときも、「いつもと違う生活をして、身体にぜい肉が付くといけないから」と、駅で乗り換えの汽車を待つ間、テニス部の部員は全員、プラットフォームで素振りするんです。そう、どこにでも、体操着とラケットは持参でした(笑)。
厳しい稽古を一日も休まないんですから、身体も自然と出来てきます。けれど、授業と放課後のテニスだけで、他のことには手が回りません。私たちが若い頃は、中原淳一さんという画家の方の、眼の大きな、お洒落な女の子たちの載った雑誌が人気でした。
中原先生の絵が表紙の「それいゆ」や、その他にも「女学生の友」とか10代の女の子たちが読む雑誌がいくつかありました。私は高校を出るまで、その手の雑誌を見た記憶がないんです(笑)。それほどまでに一途に、毎日がテニス一色でした。

インタビュー・文 樋渡優子
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