≪第13話≫
私と洋裁――芸は身をたすく・その①
今日は、姉と妹と私の3人で撮った、子どものときの写真をお目にかけましょう。
左から妹の勝代、姉・幸代、私です。私は4つか、5つ……2歳ずつ年が離れている姉妹ですので、姉は小学校にあがった頃、妹は2、3歳でしょうねえ。これは写真館で撮った写真です。昭和の初めごろですから、いまから90年ほど前になります。3人それぞれデザインの違うワンピースを着て、タイツに革靴。姉と私は麦わら帽子。妹の帽子のデザインはいま見てもしゃれていますね。こういう洋服は、私の実家「清川」の祖父(成松安一)が、大阪あたりに行ったときに、おみやげに買ってきてくれていました。外国製だと思いますが、昔は外国から入ってきたものを〝舶来物(はくらいもの)〟と呼んでおりました。
日本人の着るものの移り変わり
ふだんから日本人が洋服を着るようになったのは戦後(1945年以降)のことですけれど、子供服や学生服は戦前から洋服でした。着物に比べて、洋服は動きやすいですので、活動的な子どもや学生の着るものとしては適していると考えられていたのでしょう。
昭和10年代前半に女学生だった私の制服もセーラー服でした。セーラー服はみなさんもご存じのように、西洋の水兵さんたちが大きな襟のついた制服を着ていたのを、学校の制服として日本で取り入れられたんです。
鹿島高等女学校の制服は紺色。セーラー服のトレードマークの襟カバーに、下はプリーツスカートです。夜寝るときは、スカートのひだが取れないように、布団の下にいれて寝押ししました。
戦争中は、男の人は国民服、女性は上は質素な素材の短い着物に、下はもんぺでした。結婚式ももんぺで挙げる方がほとんでした。戦争が終わって、日本人の着る物が着物から洋服へと劇的に変わりました。袖の長さひとつとっても、洋服には長袖、七分袖、半袖、ノースリーブと長さもいろいろ、デザインもいくつもあります。
女物の着物にも袖丈が何通りかありますが、その違い以外は、デザインは同じですね。夏は絽(ろ)、冬はウールといった素材の違いで、暑さ寒さを調節する着物と比べると、ベストやコートなどバリエーション豊かな洋服のほうが気候に合わせやすい、という点も大きな魅力だと思います。
戦争に負けてから日本は7年間、アメリカの進駐軍(GHQ)の統治下にありましたが、この期間に、チョコレートやキャンディ、コカ・コーラ、アメリカの音楽や映画など、西洋の文化がどっと入ってきました。生活の変化にともない、着る物も戦前とは大きく変わりました。東京や大阪、博多のような大都会だけでなく、鹿島のような小さな町にまで、その変化の波は一気に押し寄せたことは、前にお話しした通りです。
娘時代に洋裁を学んでいた私は、日本女性が着物から洋服へと変わる大転換期に、その技術を使って生きていくことができました。幸運だったと思いますねえ。まさに「芸は身をたすく」です。