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2019年12月10日

≪第4話≫結婚、そして大連へ。(後編)


結婚したのは昭和18年の春、私が21歳になる年です。戦争に行っていた主人が外地から帰国している時期に合わせて、実家の清川で結婚式を挙げました。その頃には戦争が始まっていましたので、結婚式といっても、もんぺ姿の花嫁さんが大半でしたが、私の両親の強い希望で、亡くなった姉・幸代の形見の着物を着て、清川で記念写真を撮りました。

道子・四郎の婚礼写真。戦時中のことで夫は軍服。花嫁は亡き姉の形見の着物で記念撮影した。

主人は兵隊に行っていたとき、一番下の階級からだんだん上がっていったのではなく、途中の階級から入ったと聞いています。最初から自分より下の人がいたというわけですね。そして、中隊長をつとめました。そのせいか、一生、軍隊式の人でしたよ(笑)。心根は優しいんですが、すべてに細かくて厳しいんです。
結婚式を挙げて、新婚旅行は小浜(おばま、長崎県雲仙温泉)に一泊しましたが、これが楽しくなくてねえ……お茶ひとつ淹(い)れて出すのにも、あれこれ厳しく注意されるし、堅苦しいし、ふたりでいても喋ることもないしで、新婚旅行は一日で十分でした(笑)。
主人は運がよかったんです。軍の休みの日に部下の人たちを連れて映画に行っていたとき、敵の爆撃を受けたので難を逃れられた。もし、その日、出掛けていなかったら、危なかったそうです。

下関から船に乗り、朝鮮半島へ


それから主人と私は、中国大陸の大連へと旅立ちました。鹿島から汽車に乗って山口県の門司(もじ)まで行き、門司港から船に乗って、朝鮮半島に渡りました。釜山(プサン)港に着くと、こんどは汽車に乗り換えて、朝鮮半島を北上していきました。4日ぐらいかかりましたでしょうか、ずーっと、ひたすら汽車で走り続けて、それは長くかかりましたよ。
やがて汽車は中国に入り、ターミナルの奉天(ほうてん)駅に到着しました。ここでは同じ汽車に、満州人をはじめ、中国大陸のいろんな民族の人たちが乗り込んできました。

軍服を着た東島四郎。

私はそれまで生まれ故郷の鹿島と、女学校を卒業した後、洋裁学校に通っていた2年間暮らしていた博多と、九州にしか住んだことがありません。たくさんの外国人を見たのは生まれて初めでです。奉天は日露戦争の舞台にもなったところですが、奉天駅は大きな駅です。
駅の周りで物を売る人たちや、食べ物を煮炊きしている人たちが大勢いました。満州の人たちが料理している場所や汽車で乗り合わせた人たちからは、日本では嗅いだことのないような、強いニンニクの匂いがしました。いまでこそ、日本でもニンニクをいただきますけれど、その当時は、日本人はニンニクはあまり食べなかったんですよ。
気が付けば、自分が見知らぬものに囲まれていることに気持ちが圧倒されて、「本当にここで、これから生活していけるだろうか……」と強い不安に襲われました。
やがて、汽車の時間が来て、私の不安を乗せたまま、列車は奉天から最終目的地の大連に向かって、走り続けました。

インタビュー・文/樋渡優子
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